護るべきものを

 からん、と軽く鈴の音を響かせて、ザックは紫雲亭の扉をくぐった。この町の唯一の宿屋兼酒場の主人が、目の前のカウンターの中でにやり笑う。意味ありげな問いに首をひねったザックは、次の瞬間短いうめき声を上げた。
「…………なんつー…」
「よほど疲れているようだね。よく寝ているよ」
「部屋に帰れよなぁ…」
 にこにこと笑いながらのマスターの言葉に、渋い表情でザックは呟いた。無防備、どころでは済まされない所業である。世の中の善意をよほど信頼しているのか、あるいは悪意を知らないのか。どちらにしても大問題である。
 …同じ旅の仲間としては。
「……ホンっトーに寝てるな…」
「後は頼んだよ」
 どうやらわざわざ見張っていてくれたらしく、ザックに後を頼んでマスターは奥の倉庫へと向かった。お礼に後で高い酒でも注文したほうがいいだろう。後姿を見送って、ザックはゆっくりとカウンターの隅へと向かった。
 壁に面しているという点を存分に活用して、ひとりの少女が眠っていた。カウンターに肘をついて、壁に後頭部をもたれさせている。露わになっている表情は、双眸を固く閉ざしているせいか、普段よりも幼く見える。
 それでも。匂い立つような気品は隠しきれない。
 呼吸に合わせてさらさらと揺れる髪は、柔らかい金色。一口に同じ『金』といっても、ザックの濃い麦穂のような金でもなく、もうひとり何かと口やかましい少女の鮮やかな金でもなく。いかにも穏かな彼女らしい、暖かい春の日差しのような柔らかい色合いだ。
 旅に出てから少し日に灼けているものの、肌理の細かさは変わらず…むしろ出会った時よりも相応に歳を取り、丸みを帯びて完成しつつある容貌は、仄かな色気すらも感じさせるようになった。彼女に対してそんな感情を持っていないはずのザックでさえ、時折どきりとするほどに。
 正真正銘の王族としての自覚と教育に因る気高さと典雅さ、仲間としての気さくさを有する彼女、セシリアをひとりの女性として望む場合、これほどの高嶺の花は無いと言い切れるだろう。だからこそ、こうして無防備な瞬間、不埒な事を企む輩が居ないとは言い切れず、マスターもそっと見守ってくれていたに違いない。ただの渡り鳥に対するにはあまりにも破格の厚意だから。
 そして、それは本来はザックの役割でもあって。
「……しょうがない姫さんだぜ…」
 くすり、と小さく苦笑を零したザックは、そっと音を立てないよう慎重な動作で、セシリアの隣に腰を下ろした。努力が功を奏したようで、セシリアに目覚める気配は無い。
 すうすうと穏かな寝息を紡ぐセシリアを、目を細めて見つめる。
 最初、旅に出た当初は、どこまでも気に食わない存在だった。毛嫌いしていた「王族」というのもあるけれども、それを差し引いたとしても、理由も無く気に入らないことが多くあった。
 今ならわかる。きっと眩しかったのだ。ただ復讐のみを心の牙として、闇の中ひたすらにそれを研いできた自分とは裏腹に、煌めくような光を魂に宿す彼女が眩しく、羨ましく…同時に、憎かったのだろう。自分には到底持ち得ないものを大事にすることができるセシリアの強さが、妬ましかったのだ。ただその時はぼんやりと、気に食わないと思い続けていたのだけれども。
 何時からだろう。セシリアの強さを認め、受け入れ、微笑ましく見ることができるようになったのは。彼女が彼女のままでいられるよう、護るのが年長者である自分の役目でもあると、思えるようになったのは。
「…すまねぇな…」
 小さく呟いて、慎重に手を伸ばす。指先に触れた金糸は柔らかく、さらりと滑り落ちた。
 肩の上で短く切り揃えられていた髪は、今はようやく初めて出会ったときと同じくらいに伸びてきている。遊びじゃないと言い放った自分に、己の決意のほどを証明する、そのためだけに切り落とされた髪は、長い旅を経てもとの長さに戻りつつある。
 髪が伸びるのに必要な時間は、それだけ彼女とともに歩んだ時間でもあって。
「もう、切らせねぇから…」
 今ではすっかり、ザックにとってセシリアは妹のように可愛い存在だし、セシリアもザックを兄のように慕っている。セシリアがどの道を選ぼうとも、彼女が本当に愛する人と結ばれるそのときまで、彼女をあらゆることから護るのは、きっと『兄』としての自分だけの役目のはずだ。もう『世間知らずのお姫様』ではない彼女には必要ないかもしれないけれども、それでも。
 何も喪わずにすむように。光を見失わないように。望むものを掴み取れるように。
(誓い、を)
 再びセシリアの髪を掬い取ると、一房にそっと口づける。ふわりと花に似た甘い香りが、鼻先を掠めてゆく。
 刹那。
「あ~もうッ! サイアク~!」
「そうね。急に雨が降ってくるんだものね」
「もうちょっと遅かったらよかったのに。髪が濡れちゃったじゃないの~ッ!」
 賑やかな声と同時に、勢い良く扉が開けられる。しまった、とは思ったが、今更間に合わなかった。指にセシリアの髪を絡めたままのザックを見て、外から駆け込んできたジェーンとエマが凍りつく。咄嗟に手を離し、慌てて立ち上がり逃亡を図ろうとしたザックだったが、一瞬で距離を縮めたジェーンによってがっしりと服の裾をつかまれた。見上げてくる勝気な瞳が、やけに据わっているのが怖い。一呼吸分の間をおいて、どろりとした声音でジェーンが問いかけてきた。
「…………………なに、アレ」
「いやー………目の錯覚じゃねぇの?」
「なわけないでしょッ!? ひとがちょ~っと目を離した隙に…」
「別に疚しいことしてるわけじゃねぇけどな」
「疚しくないんだったら、今! 同じことやってみなさいよッ!」
「やったら怒るだろ?」
「じゃあ、やっぱり怒るようなコトしてたんじゃないの!」
 無駄を承知でそらっとぼけてみたが、やはり見逃してはくれないらしい。甲高い声で怒鳴りつけるジェーンを、何とかあしらっているうちに、賑やかな怒鳴り声に触発されたらしく、ゆっくりとセシリアが瞼を押し上げた。まだ眠いのか、翡翠の双眸が僅かにけぶっている。
「…起きた?」
 ジェーンとザックの口論を放置していたエマが、にっこりとセシリアに笑いかけた。同時に、ジェーンが慌ててセシリアに駆け寄る。ジェーンにとって自分の存在が、基本的にセシリア以下のはよく知っているし、今更それについてどうこう言う気も無いが、こうもあからさまだと少し哀しいものがある。
「あ、はい。すみません、うとうとしちゃってて…」
「ケダモノが見張っていたみたいだから、それなりにいいけど…寝るなら自分の部屋のほうが安全よ?」
「そうそう。何かあってからじゃ遅いんだからね!?」
 ちらり、と意味深にこちらを見ながら辛らつな科白を吐く二人組みにザックは、はは、と小さく乾いた笑みを返すに留めた。反論したいところではあるが、パーティの中でこのコンビに口で勝てるのは、人のいうことを凄まじく自分に良いように受け取るスキルを持つゼットぐらいなものだろう。いや、彼の場合はまったく堪えていないという、精神的な防御力の高さによるものだろうけれども。なんにしろ、害虫扱いされなかっただけ、ましなのかもしれない。
 とりあえず、ふたりが居るのであれば、ザックの用は済んだも同然だ。これ以上ここに居ても、ジェーンとエマの二人によってたかって玩具にされているのは目に見えている。ジェーンとエマがセシリアにかまけている隙に、そろそろと姿を消すのが得策…そう判断したザックは、こっそりと足音を消してくるりと回れ右したのだが。
 ――だがしかし、現実はそう甘くは無いようで。
「…………そういえば、随分と髪が伸びたわねぇ」
「そうですね」
 ザックの思惑に気づいているのかいないのか、エマがふとそんな風に話を切り出した。消毒とばかりにセシリアの髪に触れていたジェーンが、小首を傾げる。
「髪? そういえば、最初に会ったときはもっと髪が短かったけど…伸ばしたのって、何か願でもかけてるとか?」
「そういうわけじゃないんですけどね」
 にこりと穏かな笑みを浮かべて、あっさりとセシリアが否定する。何気に危険な話の流れに、ザックは一刻でも早く立ち去ろうとするが、それよりもエマの暴露のほうが先立った。
「確か、ザックのせいで髪切ったんじゃなかったかしら? ねぇ?」
「ごっ…」
 パン!
 誤解だ、と叫ぶ間も与えず。ザックのすぐ右の壁に、破裂音と共に小さな穴が穿たれた。右頬を掠めてしゅうしゅうと上がる白煙に、ザックの動きが凍りつく。
 目で追うことすらもできない速さだった。ジェーンの素早さはただでさえチームで一番なのに、今はモンスターを相手にするときよりも格段に速くなっている。アクセラレイターを使用してもおいつくかどうか。
 …これはちょっと、洒落にならない事態かもしれない。じり、と後ずさりながら、ザックはぶんぶんと両手を振った。幸い、階段はすぐ近くにある。脱出経路を脳裏に描きながら、一応無駄と知りつつも説得を試みる。
「ちょ、ちょっと待てッ! 話せば解る、話せば…」
「やかましいッ! 髪は女の命なのよ、それをよくも…!」
「誤解だッ!」
 懸命に叫んでみるが、ジェーンに聞く耳はないらしい。問答無用といわんばかりに、銃口がきらりと煌めいた。
 そして。
「天誅~~~ッ!!」
 ばたばたと賑やかな足音を追いかけて、ぱんぱんと小気味良いほど景気良く、破裂音が響く。屋内ということを全く考慮していないジェーンの暴れっぷりに、セシリアは不安そうにこくん、と首をかしげた。
「建物…壊れちゃったりしませんよね…?」
 恐る恐るかけられた問いに、冷めた目つきで上階に眼差しをめぐらせたエマは、あっさりと肩をすくめて言い放った。
「そーね。多分。…それよりも、わたしたちはのんびりお茶でもしましょ」
「あ、はい!」

 そのあと、命からがらジェーンの魔手から逃れたものの、酒場の修繕費と記した請求書をエマに突きつけられ、雨の降る中走り回ったせいで風邪を引き…けれど、少しだけうれしそうにセシリアに看病されたのは、また別の話。

コメントを表示する

コメントはお気軽にどうぞ