誓いの剣

 それは、完全な不意打ちだった。
 油断したわけではない。けれども、どこかに隙があったのもまた事実だった。
 もうじき遺跡の出口で。零れ落ちる光が燦々と差し込んでいて。
 ほっと息をついた瞬間に、それは背後から襲い掛かってきたのだった。

 一瞬。ただの一瞬で、事態が急変した。
 内部の探索を終え、遺跡を出ようとしたその刹那、背後から2体の魔物に襲われたのだ。鈍い悲鳴に慌ててセシリアが振り返ったとき、そこには大量の血を迸らせながらゆっくりと倒れこむ二人の姿があった。
 真正面から戦えば、決して遅れをとる相手ではない。けれども、完全に不意を突かれたこと、そして何よりも、腕や足といった末端ではない、背中を真っ直ぐに貫かれたことが致命傷となった。地面にどう、と倒れこんだ二人は、そのままぴくりとも動かない。ただ溢れ続ける鮮血が、生物のように地を這い流れ続ける。
「ザック! ロディ!」
 セシリアの悲痛な叫び声が、遺跡の内部に響き渡る。薄暗いためはっきりとは解らないが、それでも見える範囲の出血の量は尋常なものではなく、一刻も早い治療が必要なことは確かである。
(どう…すれば…)
 時間が引き延ばされるような感覚の中セシリアは、ぎちぎちと血に塗れた触手を揺らせる植物にも似た2体の魔物を見詰めた。
 植物型の魔物は総じて火の魔法に弱い。けれども、火の紋章魔法の効果範囲はさほど広いものではない。2体が固まっていたら纏めて倒せるのだが、動き回るモノが相手である。2体の魔物を相手にするならば、2回魔法を行使しなければならない。
 けれども、それではロディやザックの回復が間に合わないから、先に彼等を回復させてから魔物に向かわねばならないだろう。だが、回復したばかりの彼らはおそらく意識がぼんやりしているだろうから、回復させてすぐに倒さなければ…もしその間に攻撃を受けてしまったら、再び倒れてしまう。早く回復しなければ、蘇生の魔法でも間に合わないかもしれない。
 魔術はあくまで人の助けになるもの。命尽きた者を甦らせることはできない。『蘇生』と言っても、実際は残された魂の糸を手繰って戻すだけだ。完全に切れてしまえば、人の手ではどうにもならない。
 それが自然の摂理なのだ。
(早くしなければ…!)
 一気に方をつける考えが、無いわけではないが、それは余りにも危険な賭けだった。本来と大きく異なる魔術の使い方は、術者に大きな反作用をもたらす。
 それでも。
(今度は、わたしがみんなを助けます…)
 きゅっと唇を噛み締めて、セシリアは真っ直ぐな眼差しを前に向けた。
 そのために自分の身が傷つく覚悟、なんて。
 そんなもの、とっくに決まっている。
(ロディも、ザックも…もう誰も喪いたくないの…!)
 無限に引き伸ばされた刹那の間に、己のやるべきことを見定めて、セシリアはひゅぅっと大きく息を吸い込んだ。ザックとロディを傷つけた魔物たちが、二人の息の根を完全に止めてしまう前に、自分へと注意を惹きつけなければ…!
「忌まわしき魔物たち…! まだわたくしが残っています!」
 凛、と。
 清冽に響く声には、誰しもが振り向かずにはいられない力があった。
 それはまさしく、王の声だ。
 魅了され、跪き、崇め讃えずにはいられない…ヒトの心を掴む力に満ちた、声。
『ギ…?』
 人語を解するかどうか怪しい魔物たちでも、それは例外ではなかったようだった。倒れ伏したロディ達を喰らおうと近寄っていた魔物の動きが止まり、やがてゆっくりとセシリアに向き直る。明滅する2対の眼は、セシリアを次の標的と定めたようだった。食欲という何よりも強烈な欲求が圧迫感となってセシリアに迫り、思わず背筋がぞくりと粟立つ。
 仕方が無い。実際、3人の中では最も直接的な戦闘力は低い。魔術という手段さえなければ、セシリアは戦う術を持たない普通の人間と何ら変わることはないのだ。真正面から、しかも至近距離で魔物と対峙するなど、本来ならば選ぶべき道ではない。
 それでも喪いたくないものがあるから。
『ギィィ…!』
 甲高い声を放って、魔物のうちの一体がぬらりと光る触手を素早く伸ばしてきた。予想外に速いそのスピードに、咄嗟に身をひねるがかわしきれない。アークセプターを握る右腕に朱線が疾り、小さな紅の珠が飛び散った。鋭い痛みに杖を取り落としそうになるが、懸命に握り締め、左手で一枚のクレストグラフを取り出す。淡く輝く美しい青い紋様がふたつ、重なり合っているそれは、生命力を高めるものだ。
「きゃあ…っ!」
 注意が僅かに逸れた隙を逃さず、もう一体がすかさず襲い掛かってきた。だが右手にアークセプター、左手にクレストグラフを握っているために上手く体のバランスを取ることができず、致命傷だけは免れたものの左の太ももをざっくりとやられてしまった。勢いに負けて傾く上体を、右足を踏ん張ることでなんとか立て直し、倒れ伏している仲間の姿がどちらも視界に入るよう視線の向きを定める。
 一撃で仕留めることはできなかったからか。それとも何かの警告が彼らにあったのか。慎重に魔物たちがじりじりと近寄ってくる。その用心深さが、セシリアに時間を与えた。
(今…!)
 ふっと息を吸い込み、左手のクレストグラフに意志を込める。それに応じるように、身体の内から魔力が解放される。略式魔法陣へ魔力神経を接続、瞬時に本来描くべき魔法陣を解凍し展開する。掲げたアークセプターの先に、ぼうと光の粒子をばら撒いて八芒星が顕現する。そうして仮想現実変換路の確保ができたなら、通常であれば後はそれを解き放つだけなのだが…。
「……ッ!!」
 きつく歯を食いしばって、その魔法陣を維持したまま、セシリアはもう一度クレストグラフに意志を流し込んだ。魔法の二重起動にぎしぎしと脳髄の奥に火花が散る。先ほどと同じ手順を踏んで、既に現れている法陣のうえにまったく同じものが重ねられる。その間、刹那にも満たない時間しかないはずだが、尋常ならざる負荷を受け止めているセシリアには永遠にも等しかった。
 暴発しそうな意識を懸命に押さえ込んで、ともすれば迸りそうになる悲鳴を噛み殺す。震える唇をゆるゆると開いたセシリアは、完全起動の引き金となる言葉を、あらん限りの想いを注いで紡ぎ解き放つ。
「……癒しの光よ…、降り注ぎ活力となれ…!」
 宙に描かれた八芒星がぱんと弾けて、きらきらと光がロディとザックに降り注ぐ。絶え間なく溢れ出していた流血が止まり、見る見る内に肉体が修復されてゆく。
 ほっと、息をついたその瞬間に。
「あああぁぁぁッ…!」
 獲物を横取りされた怒りか、あるいは他の感情とすら呼べない何かか。
 昏く淀んだ双眸に灼熱の感情を灯した魔物が、ふっと肩の力を抜いてしまったセシリアに襲い掛かってきたのだ。避けることはできず、貫かれた左肩から鮮血が迸ると同時に、懸命に堪えていた悲鳴が空間を割いて響く。
 もう立っていることすらできなかった。がくりと膝をついた地面の冷たさが、ひやりと背筋を伝わってくる。力が入らない左手から、赫く染まったクレストグラフがはらり舞い落ちる。
(洗ったら落ちるのかしら…?)
 そんな埒もない考えが浮かんで、くすりと微笑が泡だった。ゆらゆらと自分の血に濡れた触手を揺らめかせながら、魔物が追い詰めるように近寄ってくる。規格外の魔術の使い方をした反動か、頭の芯がぼやけているような感触があった。魔物にも人間のような感情があるのだろうか。追い詰めた獲物の恐怖を味わうような、そんな。
 わからない。人と人でさえ、本当にわかりあうことは困難なのだ。言語も、生態すらも違う魔物の真理を、人間が理解することはできないだろう。
 けれども。
「…ここで、終われません…!」
 それだけは、解っているから。
 大量の血を失って、次第に明瞭さを失いつつある視界の中で、セシリアは震える指先で冷たい石版を探り当てる。刻み込まれた紋は火の守護獣のモノだ。
「……秘めたる激情…」
 セシリアの呼び声に応じて、うっすらとミーディアムに燐光が灯る。紅く淡く輝くそれは、まさしく炎の色だ。
『ギ…?』
 異変を感じたらしく、セシリアに近寄る魔物の足が止まる。逃げ場を探すように、魔物の眼が慌しく左右を見回すが、もう遅い。空間に熱が宿り、瞬く間にそれは火の守護獣ムア・ガルトの形を象る。
 きゅ、とセシリアの唇が笑みの形を刻んだ。守護獣を具現化するには力が足りないのではないか、と思っていたが、何とかできたようだった。
 ならば後は、ロディとザックに任せればいい。
「翼に燃やして、解き放て…!」
 くぁ、とムア・ガルトのくちばしが開いて、死刑宣告を奏でる。急速に温度が高まってゆき、恐ろしいほどの熱が集まる。そして。
 轟、と音と熱波を迸らせて、真紅の鳥が魔物を燃やし尽くすのを視界の端で確認しながら、セシリアはゆっくりと地面に倒れこんだのだった。

「…目ぇ覚めたか」
 ぽつりと落とされた声音は、普段よりも柔らかく響いた。思わず目を瞬かせて、声がした方を向く。白いシーツの端には、濃い金の髪を無造作に纏めた青年が立っていた。その隣には、蒼い髪の少年。
 見慣れた二人の姿だが、その表情には疲労と…それよりももっと濃い安堵の色が浮かんでいた。意識に残る最後のシーンと現在とが結びつかず、首をかしげるセシリアに、ロディが穏かに説明する。
「ここは宿屋だよ。セシリアはもう2日ずっと寝ていたんだ」
「そうですか…」
 どうりで身体の調子がおかしいわけだ。もっとも、無茶な力の使い方をして、この程度ですんで良かったというべきなのかもしれない。
「まったく…呆れた姫さんだぜ」
「そういうけど、ザックが一番心配そうに…」
「うるせっ、余計なこと言ってると丸焼きにして食っちまうぞっ」
 ハンペンに図星をさされて、幾分顔を赤らめたザックがハンペンを捕まえようとする。すばしこいカゼネズミはその手をするりとかわして、ロディの蒼い髪の上で偉そうに胸を張る。そして、間に挟まれたロディは、どうなだめれば良いのかわからず、おろおろと視線をさまよわせている。
 それは、ひどく賑やかで…当たり前の光景で。
 自然とセシリアの唇から軽やかな笑い声が零れ落ちていた。
(大丈夫)
 突然笑い出したセシリアを、ふたりと1匹はきょとんとした表情で見ているけれども。
 それでも、セシリアはただ笑い続けた。
 何も喪わなかった。今度こそ、護ることができた。てのひらから零れ落ちてゆく命を、しっかりと繋ぎとめることができた。
「…もうっ、ハンペンもザックも………ロディが困ってますよ」
 ようやくのことで笑いをおさめ、うっすらと眦に浮かんだ涙を指先で拭い取る。軽く咎めるような口調に、ハンペンを素早く視線を交わしたザックは、やれやれといわんばかりに肩をすくめてみせた。
「しょーがねぇ、ここは勘弁してやるか。目を覚ましたって言っても、まだ体調は万全じゃないだろうしな」
「あ、それもそだね」
 確かに、二日間眠り続けたあとの体調が、万全であるはずがない。ザックの言葉にあっさり頷いたハンペンは、ひょいと身軽にザックの肩へと飛び移った。その衝撃で、ロディの蒼い髪がふわり揺れる。
 賑やかに足音を立てながら階下へと下りてゆくひとりと一匹の姿が、完全に視界から消えたころ、後姿を見送っていたロディが不意にセシリアのほうへと振り向いた。
「あのね」
「…なんですか?」
 至近距離で穏かに覗き込んでくる赤紫の瞳に、ほんの少しだけ緊張を高めながら、セシリアはゆっくりと首をかしげた。人にはあまり見られない色彩は、なぜか心がかきたてられる。
「ハンペンの言ってたコト、本当なんだ。ザックさんが一番、心配してた。俺が護れたはずなのに、って悔しそうだった」
「そうなんですか…」
「ザックさんはあのとおり、自分じゃ絶対に言わないだろうけどね」
 軽口を叩く割に、自分のことを話したがらない剣士ではあるけれども、その繊細な精神の奥深くで息づく悔悟の念に、セシリアはうっすらと勘付いていた。大事な者を喪ったからこそ、彼は絶対たる力を求めずにはいられなかったのだろう。
「おれも、一緒だった」
「………え?」
 とつとつと、決して滑らかではないけれども精一杯の気持ちを伝えるロディの声音が、僅かに色合いを変えた。ひっそりと囁くようなその声には、狂おしいような、希うような、不思議な苦しさが滲み出ている。
 溢れだしそうな何かを懸命に押し殺すような。
「セシリアが、おれ達を助けてくれたのは嬉しいよ。嬉しいけど…そのせいでセシリアが無茶をするのは、すごく苦しい。セシリアが眠っている間、ずっと思っていたんだ」
 もし、このまま目覚めなかったら。
 自分のせいで、彼女の命が失われることになってしまったら。
 自問するのも恐ろしいその問いかけは、セシリアが目覚めるまでずっと続いていた。
「おれも、ザックさんも、そんなことは嫌なんだ。だから…」
「で、でもっ」
 否定をされているわけではない。ロディやザック、ふたりがセシリアの身を案じてくれていることは、十分に解っている。それでも。
 ただ、護られるだけの存在にはなりたくなかった。
 すでに、渡り鳥である彼らたちにとって、旅慣れない自分の存在は重荷のはずなのだ。せめて自分にしかできないことで、彼らの役に立ちたかった。
「仲間なのに、仲間だから………っ」
 溢れる想いが強すぎて、上手く言葉に換えられない。じわじわと滲み出した涙を隠すように俯いたセシリアの頭に、ふわりとロディの手が乗せられた。
 かたいグローブに包まれた手と、荒野を吹く風にさらされて少し痛んだ金の髪と。
 熱が直接伝わるわけはないはずだが、ほんのりと暖かい気持ちがセシリアの中に流れ込んでくる。
「セシリアは気づいてないけど、おれ達は本当にたくさんのものを、セシリアからもらっているよ。だから、無理にがんばらなくてもいいんだ。セシリアが、セシリアのままでいてくれたら」
「で、でも…」
「とにかく話はこれで終わり。セシリアもまだ本調子じゃないんだから、もう寝ないと。じゃあ、またね」
 何とか抗弁しようとしたが、穏かなロディにしては珍しくきっぱりと言い切られて、セシリアは言い募る言葉を失った。諦めたセシリアにロディは小さく笑うと、手を振りながらザックの後を追うように階下へと下りる。
 かたん、と扉の閉ざされる音を聞きながら、セシリアはほぅと息をついてずるずるとシーツの海にもぐりこんだ。ロディの前では精一杯気を張り詰めていたけれども、こうしてひとりになると、目を開けているのも億劫なほど疲れていることに気づいたのだ。
 仲間だから。傷ついてほしくないと。
 仲間だから、無茶をしてほしくないと。
 願う気持ちはどちらも同じで、だからロディとセシリアとどちらかが間違っているというわけではない。ただほんのちょっと、自分への優しさが足りないだけで。
「もう少しだけ…がんばりますね…」
 今の自分はあまりにも未熟だけど、それでもありのままの姿を認めてくれる仲間がいるから。
 無理に背伸びをするのではなく、ほんのすこしだけ爪先立ちをして。
 そうやって大きくなっていけば、いつかはそれが『本当の自分』になるだろう。虚勢でもなく虚飾でもなく、真実の自分の背丈を、そうやって伸ばしていけば、きっと。
 だから今は、星の未来を信じる気持ちと、修道院で培った魔術とを剣として胸に秘め、彼らの傍で戦えばいい。
「…おやすみなさい…」
 とりあえず明日には起きれるように、体力の回復をはからなければ。
 小さな呟きを残して、セシリアはゆったりと訪れた睡魔に身をゆだねたのだった。

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