Messias

 かろん、と控えめに鈴の音が聞こえた。耳に馴染んだそれは玄関に取り付けられた鈴のものだ。こんな時間に扉を開けるものの存在は唯1人しか居ないのは明らかで、転寝していたヒューゴはソファから飛び起きた。ようやくの帰宅に、先ほどまで漂っていた睡魔は吹き飛んだようだ。できるだけ普段通りの笑顔を作りながら、急いで……けれどいつもと同じを装えるよう足音を立てないのを心がけながら、玄関へと向かう。
「お帰りなさいクリスさん」
「……うん……」
 返ってきたのは、力の無い呟きだけだった。深く俯いているクリスの表情は、さらりと落ちている前髪によって隠されており、ヒューゴからは窺い知ることは出来ない。
 それでもヒューゴは、クリスがどれほど気落ちしているか……どれほど傷ついているか、知っている。だからこそ、敢えて『いつも通り』に振舞うことで、クリスの気分を和らげたかったのだが、様子を見る限り効果はまったく望めないようだった。
「とりあえず、お茶を淹れようか?」
「……うん……」
 石像のように立ち尽くしているクリスから外套を剥ぎ取り、玄関脇の外套掛けに掛ける。放っておけば朝まで立っていそうなクリスの手をとると、そのまま居間へと引っ張っていった。普段の流れでは、クリスを二階の私室へと送り出し、騎士衣から普段着へと着替えている間に、ヒューゴが料理の仕上げに取り掛かるのだが……いくら『普段通り』とはいえ、今のクリスを独りにさせるのは危うい気がしたのだ。帰宅したクリスが髪を解き着替えることで、『騎士団長』から『個人』へと気持ちを切り替えているのを知っているが、今日の様相では独りになった途端、糸の切れた操り人形のように身動きできなくなるだろうことが簡単に予測できた。
 多分クリスの事だから、他人の前では『頼れる騎士団長』をずっと演じ続けていたに違いない。そうやって気を張って、張って、張り続けて……そうして、家に着いた瞬間に、空っぽになってしまったのだろう。そうなる前に、少しでも誰かに愚痴をこぼすなりして、負ったものを軽くしてしまえばいいものを、とは思うが、それができるような性格ではないことも知っている。クリスがこうなることを見越し、帰宅より先回りして経緯を教えてくれたサロメに、後で重ね重ね礼を言わなければならないだろう。相手がヒューゴであっても余り弱音を吐かないクリスだから、尋ねない限り何も言わないだろうし、疲れ果てたクリスをただ戸惑いながら迎えるしかできなかったはずだ。
「すぐお湯沸かすから。ちょっと待ってて」
 クリスをソファに座らせ、せめてとばかりに結い上げている髪を解いてから、すばやく台所へと引っ込む。湯が沸くまでの間の僅かな時間も無駄にしないよう、手早く茶器と茶葉の準備に取り掛かった。選んだのは普通の茶葉ではなく、緊張を緩和させるという薬効を持つものだが、どれほど効いてくれるかは怪しいものだと思う。それでも、些細なことでもやらないよりはやったほうがいいに違いない。
 ゼクセンに住むおよそ全ての人にとって、クリスは『自分達を救ってくれる人』で。そんなクリスが唯一救いを求められるのは、仲間であり永遠を誓った恋人でもあるヒューゴだけだ――そう、サロメは言ってくれたけれど。
 それでも、真の紋章を宿しているとはいえ、親元を飛び出した『ただの子供』に過ぎない自分にできることなど、高が知れていると正直思う。大きな戦を経験し、身に余る力を手に入れ……けれど変わらず無力なままで。
(俺はどうすればいい……?)
 迷宮に捕らわれかけた思考を打ち破るかのように、薬缶の口からしゅんしゅんと音を立てて湯気が立ち上る。迷いを振り切り薬缶を火から下ろすと、茶葉をいれたポットに静かに湯を注ぐ。
「……ごめん、お待たせ」
 ポットと砂時計、それにカップをふたつ盆に載せ、足早に居間へ戻った。身じろぎひとつしていなかったに違いない、双眸を中空に向けたままぼんやりしているクリスの姿が、ひどく痛々しい。かける言葉を見出せないまま、盆ごと卓の上に乗せたヒューゴは、クリスの隣に座り時を待つ。いつもなら向かいに座るのだが、なんだか今はテーブルの幅分だけ開いてしまう距離が嫌だった。
 『英雄』と呼ばれる者。誉れと引き換えに課せられる、重み。
 カラヤの外に出たことが無く、知らないが故に無邪気に理想を信じていた昔の自分なら、間違いなくクリスを非難していたに違いない。その重みに耐え、期待に応えてこその英雄、などと賢しらな口を叩いて。
 ……けれど今なら分かる。英雄もまた『人』なのだ。真なる紋章を宿し、人とは異なる時を生きることになっても、その魂や精神は人であった頃と何ら変わる事は無い。心無い噂に傷つけられ、悩み惑わされ、それでも『人』としての弱さを抱えたまま生きていかなければならないのだ。
 さらり、と音も無く、砂時計の最後の一粒が滑り落ちる。ポットを手に取り、カップに等分に茶を注ぐと、ふわりと温かい香気が鼻をくすぐった。クリスの前にカップを差し出し、無言のままじっと待つ。
 やがて。
 凍っていたクリスの時間が、ゆっくりと融けてゆく。
「……ゴ……」
 温かい雫が白磁の頬を伝わり落ちる。こんなときに不謹慎だが、声を上げず静かに泣くクリスの横顔が、ひどく綺麗だと思った。
「……うん」
「ヒューゴ……」
 椅子の横に投げ出されたままのクリスの手をとり、そっと握る。
 言葉だけではなく、混じり合う熱からも思いが伝わるように願いながら。
「大丈夫」

 

 ――夕方、ビネ・デル・ゼクセに数ある娼館のひとつで、立てこもり事件がおきた。ちょうど娼館が営業を始める直前だったこともあって人質になった者の数は多く、また騎士団が悪目立ちする地域ということもあり、出動した騎士団は対話による粘り強い説得ではなく、突入という手段で早期解決を図った。娼婦を装い潜入したクリスと、その手引きで突入した騎士たちによって犯人三名は殺害され、騎士団の損傷はゼロ、人質一名が軽傷(それも転んだ拍子に腕を机にぶつけただけ)という結果に終わった。ともすれば大量の死傷者を出しかねない事件だっただけに、鮮やかな手腕で解決した騎士団には目撃した市民から多くの賞賛の言葉が寄せられ、騎士団内部の士気も大いに高まった。
 ただひとり、クリスを除いて。

 

「クリスさんの判断は、間違ってない」

 

『犯人達はいずれも、年若い、カラヤ族と思われる少年達でした』
 そう告げた、サロメの沈痛な声音が脳裏に再生される。
 自分の判断ひとつで殺した、カラヤの少年達……そこからクリスが何を思い出し囚われたのか、読み解くのはさほど難しくは無い。仕方のないことだと、止むを得ない状況だったと、いくら理解していたとしても、その深奥で悔やむ心は燻ったまま、まだ癒されてはいないのだ。どころか、ややもすれば傷口は簡単に開いてしまう。
 殺さず取り押さえる事もできたのではないか。未然に防ぐことはできなかったのか。過去は変えられず、現在をやり直せない以上、疑問に対する正解を確かめられないまま繰り返される自問ばかりが己を苛む。
 非力な女性を楯に金銭を要求するなど、許されることではない。罰されて当然の所業だ。けれども、彼らに下された「死」という罰が、果たして罪に対し相応だったのか、彼らに一片の理も無かったのか――もしそう問われれば、ヒューゴも答える言葉を持っていない。
 なぜなら、彼らもまた、ある種被害者と呼べる立場だからだ。

 

「それに、もしクリスさんが道を間違えたら、その時は」

 

 ライトフェロー邸のご近所やよく行く市場では、いつの間にかヒューゴは「クリスに憧れ仕えるようになった、カラヤの少年」ということになっている。実際とはかなり違った位置づけではあるものの、真実ではないからと逐一訂正して歩くのは面倒でそのままにしていた。そもそも、「クリスの恋人」が異民族の少年だなどと、現在のゼクセンではそうおおっぴらに言えるものでもない。ともあれ、現状でのヒューゴが、周囲にわりと好意的に受け入れられているのは間違いないことだった。加えて、騎士団の中には<炎の英雄>として戦ったヒューゴの顔を見知ったものも居るため、ビネ・デル・ゼクセで不快な思いを味わわされたことは余り無い。

 けれどそれは、結局のところクリスの立場に守られているからに過ぎない。少しずつ開かれつつあるこの石の街に、異民族への色濃い侮蔑が残っているのも、また事実なのだ。特別な庇護を与えられなかった少年達が、暴発するまでに追い詰められたのは、一概に少年達のせいばかりとも言えない。たゆたう多数の悪意は人の生を容易に狂わせるが、見えないが故に誰の責も問えないまま、静かに蔓延り続ける。

 

「俺が、絶対に言うし、クリスさんの邪魔もするから」

 

 もしかしたら、とぼんやりヒューゴは思う。クリスの傍らに来ず、カラヤに居たままの方が、クリスの助けになったのかもしれない。たくさんの人と話して、ゼクセンとグラスランド、双方の偏見を少しずつ取り除いていって。
 ……それは決して選べなかった未来ではあるけれども。
 ゼクセンへ来ることを決めたのは、ヒューゴ自身の判断によるものだ。理由の大部分はクリスと育んだ恋だけれど、それが全てというわけでもない。クリスとの仲を知る一部の者以外に対しては、「騎士団の動きを調べ、異変があればすぐにグラスランドへ報せる。内々に葬られないためには、<炎の英雄>という目立つ人間が最適」などとでっちあげている。強引に過ぎる名目だが、そうまでしてカラヤを出なければならない理由が、ヒューゴにはあった。

 

「ずっと傍で、俺が見張ってるから。だから……今は安心していいよ」

 

 グラスランドは地域の名であり、そこを統べる『シックスクラン』は文字通り、大きく六つの氏族からなる緩やかな連合体だ。五行の紋章戦争において奪われたセフィクランは返還されたものの、かつてカーナークランと呼ばれ現在はルビークと称される村の扱いはまだ決着つかないままだ。ともあれ現在は六つの氏族で構成され、それらはすべて対等であり立場の上下は無い。
 もちろんそれは建前であり、各クランの特色とそこから派生する力関係は、多少は致し方ない。けれど、『カラヤの次期長』であり、<炎の英雄>であるヒューゴの存在は、その建前を揺るがしかねないものだった。
『<炎の英雄>を有するカラヤは、いずれ他のクランを制圧するのではないか?』――。
 馬鹿げた話だ、と思う。自分も他の者も、何の為に立ち上がったのか憶えていれば、決して出てこない類の疑念だ。ふざけるなと怒鳴りつけたくても、かえって図星を指されたからだなどと悪意を振りまかれかねず、ヒューゴはそれらの噂を黙殺するより無かった。
 仕方の無いことではあるのだ。カラヤの戦士が勇猛果敢であることには定評があるし、村も一度壊滅したとはいえ現在かなりの速さで復興を遂げつつある。そこに<炎の英雄>の力が加われば、いざというとき他のクランは太刀打ちできないのではないか……味方であった時の力の大きさを知っているからこそ、余計に敵に回ったら、などと想像してしまうのだろう。疑念は不安の裏返しで、実体が無いからこそ広がりやすく、打ち消すのは難しい。各クランの中心となっている者たちとは個人的に付き合いがあるため、今のところは表立って言われることは無いが、クランの中からの突き上げが激しくなれば、彼らとて<炎の英雄>の身柄をどこが押さえるべきか、口に出さなければならなくなるだろう。
 たった三年。思い返せばあっという間に過ぎていった、僅かな時間だ。けれども、『英雄』という名の良く効く薬が、身を蝕む毒物と成るのには、充分な時間だったということなのだろう。強い力を持つが故に頼られ、同時に必要でなくなれば疎んじられることを、周囲の身勝手と責めるよりも、仕方が無いと諦めてしまえる程度には、ヒューゴも大人になった。

 

「……ね、クリスさん」
 声色を明るく変えて、ヒューゴはクリスを覗き込んだ。力の無い双眸がぼんやりと、迷うように揺れている。
「春になったらさ、まずどこに行きたい?」
「……」
 唐突な話題転換に気持ちがついていけないのか、すぐに言葉は返ってこなかった。緩く瞬きするクリスに小さく笑って、ヒューゴは言を継ぐ。
「トラン共和国とかデュナンの方とかさ。ハルモニア……はちょっとアレだけど。南のほうだったらファレナ女王国とか? そのまま足伸ばして、群島に行くのもいいかもしれないよね」
 話の行く末に勘付いたのか、クリスの眼に少しずつ光が宿る。悲嘆に暮れる濡れた菫の瞳も綺麗だけれども、クリスはやはり普段のように力強く前を見ているほうが、彼女らしくていい。
「春なんてあっという間になっちゃうから、クリスさんも今のうちに行きたいところちゃんと考えておかないとね」
「……ありがとう……」
 ゆるゆると静かに微笑するクリスの手を、もう一度ぎゅっと握り締める。
 子供の頃たくさん話をねだった、御伽噺の英雄達。悪者を倒し、様々なものを奪い返し、人々を救い――けれど現実は、決して御伽噺のように「めでたしめでたし」の一文では終われないことを、今のヒューゴは知っている。口に出して話した事は無いが、おそらくクリスも。
 どれほど大きな力を持ったとしても、すべての人の期待に完璧に応える、完全無欠の救世主になんてなれやしないのだ。否、たとえなれたとしても、そのこと自体がかえって疑惑の種となる。あるいは、かけられる重圧に、心が折れてしまうのが先か。
 ならばこそ、いつまでも<英雄>なんて言葉にこだわるべきではないはずだ。時代も、人の心も、移ろい変わる。英雄が疎んじられるというのなら、それだけ平和になったと素直に受け止めればいいだけで、何も永劫に<英雄>を演じ続けなければならないわけでもないのだから。
 自分も、クリスも。

 

 ……もっと、自由に。

 

「楽しみだよね」
「ああ……そうだな」
 幸いなことに、時間ならばたっぷりとある。解き放たれた後の身軽さを思い、二人は小さく笑みを交わしたのだった。

 

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