たとえばその高く澄んだ声とか。
たとえばその真っ直ぐに前を見詰める眼差しとか。
私がどれほどその高潔な魂を羨んでいるか、知らないだろうけれど。
はぁ、とついた溜息が予想以上に重く響いて、クリスはあわてて口元を引き締めた。誰がどこで見ているか分からない以上、こんな憔悴した様子はさらけ出せない。
ハルモニアに抗するゼクセン・グラスランド連合。炎の英雄に付き従う『銀の乙女』としては、私室以外の場所では弱いところなど見せては士気に関わる。
右手に紙の束を握り締め、早足でビュッデヒュッケ城の中を歩き回りながら、クリスは目的の人物を探して視線をさまよわせる。あちこちふらつきまわるどこぞの中年工作員ならさておき、あまり城の中を動き回る人物ではなかったため、容易に発見することはできた。
城に設置された劇場の近く、誰かと立ち話しているらしいひとに、大声で呼びかける。
「ネイ!」
「…クリスさん?」
「すまない、これのことで…、…!」
ぶんぶん右手の紙束を振り回しながら募った言葉が、隣の人物に気づいたとたん不自然にぶっちぎれた。
下から深緑の瞳で真っ直ぐに射抜かれる。
「それ、どうしたの?」
「え、いや、その、ちょっとした手違いがあってただな…」
「ふうん?」
要領を得ないクリスの説明に、当然のごとくヒューゴは首を捻って。くすくすと微笑を零しながらネイが、握りつぶされかけたその紙束を受け取った。
「今度、この劇場でコンサートをしてみないか、という話になったんですよ。楽器と、それから歌とで」
「あ、それでクリスさんもやるんだ?」
「私はやらないぞ!!」
珍しく強い調子できっぱりと、クリスは否定した。大抵のお願いには心動かされるクリスだが、今回は別である。
何しろ、クリスは自他共に認める音痴なのである。
「絶対に、だ! 誰が何と言おうとやらないならな!」
「…そうですか。残念ですが…仕方ないですね。わかりました、別の人を探しておきますね」
「すまない。だがこれだけは、どうしてもダメなんだ」
悲壮感たっぷりに言い切るクリスに興味を動かされたのか、ヒューゴが首をかしげた。
「どんな歌なの? 俺も知ってるやつかなぁ」
「多分ヒューゴさんもご存知だと思いますよ。こんなのですけれど…」
短い説明の後、ネイが呟くように歌の一部を歌う。流れ行く旋律にああ、とヒューゴが頷いて、重なるように歌いだした。
少年らしく澄んだ歌声が、高く響く。いかにも草原の民らしい、風を感じさせる爽やかな声に、クリスは複雑な視線を向ける。
それは決して、自分には手に入れられぬものだ。彼は自分には持ちえぬものを幾つもその内に秘めている。
ひとしきり歌い終わったヒューゴに、クリスはほう、と溜息を零した。
「凄いものだな…」
「そうかなあ。普通だと思うけど」
本当にそう思っているのだろう、照れたそぶりも見せずに淡々とヒューゴが語る。不意にその表情が、悪戯っぽいものに変わった。
「それにしても、クリスさんが歌苦手だなんて、初めて知ったよ」
「………悪かったな」
「別に悪くなんてないよ。クリスさんも人間なんだなぁって思っただけ」
「私をなんだと思ってるんだ」
くすくすと笑い続けるヒューゴに、憮然とした表情でクリスがぼやく。笑いが収まらないらしく、くつくつと未だに肩と喉を振るわせる少年に、クリスはぼそりと呟いた。
「よし、じゃあ、私の代わりにやってくれ」
後日、コンサートに文字通り「クリスの代わりに」ドレスに身を包み、歌を歌わされたヒューゴ姿があったという。
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