Wheel of Fortune

 ほの暗いクプトの森奥深く。初めて逢ったのはそこだった。
 僅かに差し込む陽光を反射して輝く髪。高揚する戦意に燃え上がり、ただ自分だけを見据える瞳。決して揺らぐことのない鋭い剣さばき。傷ついても倒れず、全身を朱に染めながらも立ち向かう姿。
 かちり、と運命の歯車が回る音が、胸の奥でしたのを覚えている。

 その後も何度か、彼女の姿を見かけた。セラが呼び出した魔物の群れに果敢に切り込む「炎の英雄」を名乗る小僧の隣、清冽な瞳で銀光を閃かせ魔物を叩き斬る彼女の姿は、何時何処に居ても目についた。
 例え剣が折れ、圧倒的な戦力差に晒されたとしても、彼女は決して倒れはしないだろうと、無条件に思わせる姿だった。
 膝をつき屈することはあっても。心までは屈服されない。命尽きるその瞬間まで、彼女は諦めず戦い続けるのだろう。
 戦場で対峙するたびに。そして敵意に燃える紫水晶の瞳で見据えられるたびに。
 胸の奥底で、かちり、かちりと運命の歯車は回り続ける。
 …紋章を巡る戦いが終われば、もう二度と彼女と関わることはないだろう。交わり、離れた線はもう二度と交わらない。ひたすらに離れてゆくだけだ。
 ならば…その線を捻じ曲げればいい。再び交わるように。そして、二度と離れないように。
 崩れ落ちるシンダルの遺跡の中で、人知れず決意を固める。例えそれが本人に拒まれたとしても、もはや譲るつもりはなかった。
 運命の歯車は、もう回り始めてしまったのだから。

 

 

 時計の針が規則正しく音を刻むたびに、そわそわとクリスは落ち着き無く視線を時計にやった。部屋の中にいたサロメにも、同じように緊張が走る。ブラス城の執務室には現在、クリスとサロメの二人きりしか居ないのだが、ただならぬ緊張に包まれていた。
 今日こそは、という思いがクリスの内にある。いつもいつもいいようにされているが、今日は違う。書類を眺めながら、机の下でぐっと手を握り、そのときを待つ。
 果たして。
 かちり、と時計の針が動いて夕方5時を報せる鐘が鳴った。途端に床の上にさあ、と魔法陣が走るように描かれ、光の柱が立ち上る。一瞬の光芒が煌めいた後、そこには一人の男が立っていた。クリスとサロメのみならず、他の騎士たちを悩ませる元凶でもある男だった。
 さらりと伸びる金の髪は緩く編みこまれ背に垂れている。輝く黄金と鮮血の赤、色違いの瞳。そして容易く死神を連想させる、黒一色の衣服。
 かつて「紋章破壊者」の一行に属し、クリスたちを何度も窮地に陥れてきた人外のモノ。
 名をユーバーという。
 …のだが。
 彼を知る者が居れば、おそらく目を剥いたに違いない。冗談のように似合わない、白いレースで縁取られたエプロンを見につけた彼の今の姿は、誰に聞いても「良く似た双子の兄弟」と即答するだろう。
 だが、生憎サロメもクリスも、ユーバーのその姿には慣れていた。
「クリス、帰るぞ」
「おいっ、ちょっ、待てっ…」
 慌てふためくクリスを無視して、ユーバーはするりとクリスの腕を取った。有無を言わせない態度ではあるが、クリスの腕を掴む手つきは存外やさしい。戦場 に立つとは思えないほど華奢なクリスの肢体を、お姫様抱っこの形に抱え上げると、すかさずユーバーの足元に再び魔法陣が現れ、光を放つ。
「こらっ、仕事がまだ終わって…」
「鐘が鳴った。帰る時間だ」
 じたばたと暴れ抗議するクリスを危うげなく抱えたまま、ユーバーはあっさり言い切って、クリスごと姿をかき消した。後に残された書類が転移の魔法の余波を受けて、数枚はらりはらりと机から舞う。
「……やれやれ…」
「サロメ卿! クリス様はッ…!?」
 豪快な足音が二つ響き、扉を叩き割る勢いで二人の青年が姿を現した。ボルスとパーシヴァル、二人ともよほど急いでいたらしく呼吸は乱れきっている。いささか血走った目で室内を見回したボルスだったが、目的の人物を見つけ出すことは出来ず、がっくりと膝をついた。
「お、遅かったか…」
「何というか…異様なほど、時間に正確ですね」
「そうですね」
 ひらりと床の上に落ちた書類を拾い上げながら、深い深い諦めに包まれたサロメが、パーシヴァルの言葉にぽつりと呟いた。
 実のところ、5時の鐘と同時にユーバーがクリスを攫うのは、これが初めてではないのだ。連日、ユーバーは鐘と同時にやってきては、有無を言わさずクリス をつれて『帰る』のである。もちろんクリスは思いっきり抵抗するし、他の騎士たちがいればやはり同じように阻止しようとするのだが、いかんせん相手が悪 かった。個人の力でもって排除しうる相手ではないのだ。
 第一、それぞれの仕事がある以上、鐘が鳴るときにクリスの部屋に居ること自体が、なかなか難しいのである。
 もっとも、ボルスとパーシヴァルは未だに諦めてはいない。
「おのれッ…いずれ成敗してくれるッ…!」
 雪辱に燃えるボルスの傍ら、遥か遠くを眺めて、サロメは上司の無事を密かに祈った。

 

 

「…お前というやつは…」
「何か問題があるか?」
 思わず呻きに近い呟きを漏らしたクリスに、目の前のユーバーは平然と問い返した。
「問題だらけに決まっているだろう!!」
「ふむ。まずは食ってからにしろ。どうせ今日の昼もロクに食っていないのだろう?」
「やかましい!」
 淡々と指摘され、クリスが顔を赤くして怒鳴った。
 ライトフェロー家の食堂中央に据え置かれたテーブルの上には真っ白なテーブルクロスが敷かれ、色彩豊かな食材をふんだんに使った料理が所狭しと並べられている。銀のフォークやスプーンも顔が映るほどぴかぴかに磨き上げられていて、一流のレストランのようである。
「大体、まだ仕事が残っていたんだぞ」
 スープ皿を手元に引き寄せながら、クリスが未練がましく文句をつける。
 とろりとしたポタージュスープは濃厚でまろやかなうまみがある。いや、スープだけではない。サラダはしゃりっとした口当たりに自家製らしいドレッシング の爽やかな酸味が良くあっているし、パンも外はかりかり中はふんわり焼き上げられている。メインディッシュの料理についても、文句のつけようが無い。
 ビュッデヒュッケ城での生活が終わり、ブラス城に戻ってからというもの、クリスの食生活は乱れきっていた。仕事に追われ、満足に食事する時間が取れないのだ。自然と食事の時間は不規則になり、内容もパンとスープのみという日々が続いていた。
 それから思うと、夢のような食事ではあるが、作ったのがこの目の前の男ということを思うと、逆に悪夢のような気もしてくる。
 態度を決めかね、とりあえず黙々と食事を進めるクリスに、甲斐甲斐しく給仕をしながら、ユーバーはそっけなく答えた。
「時間は時間だ。それに夫の体調を管理するのは妻の役目でもあるしな」
「誰が妻で誰が夫だ!?」
「俺が妻でお前が夫だ。世間的には、夫とは社会に出て働き家庭を支える方なのだろう?」
「………まぁ、間違ってはいないが……じゃなくて!」
 危うくごまかされかけたクリスは、テーブルを勢い良く叩くと、きっとユーバーを睨みつけた。紫水晶の瞳が炯々と輝く。穏かな食堂の空気とは相容れない、低く鋭い声が響く。
「…随分と誤魔化され続けたが、お前、何が目的なんだ?」
「くどい。俺はお前の妻となることを決めたのだ」
「…………………」
 性別的に間違っているとか。
 夫婦の契りというものには双方の同意が必要ということとか。
 そもそも自分は同意したつもりはないとか。
 ツッコミどころが多すぎて、何から言えばいいのやらわからず、ただ深く溜息をついたクリスに、ユーバーは当然のように胸をそらし言い放った。
「お前を初めて見た瞬間、俺の中で運命の歯車が回る音を聞いた。お前の妻となる運命は、その時に決まったのだ。文句を言うな」
「……アホかお前は」
 話にならないユーバーとの会話を諦め、クリスは目の前に並べられた料理をちらりと眺めやった。ユーバーの言に真面目に聞けるようなものは一つとしてない のだが、不思議なことに料理の腕前は天才的なようなのだ。台所を爆発させるようなクリスとは違い、レシピを見ただけできっちり作れるというテクニックまで 備えている。手先も器用で、テーブルに敷かれているテーブルクロスも、ユーバーが暇に任せて編んだものらしい。
 鍋の傍、根気良く煮込むシチューの味見をするユーバー。
 昼間、シーツを干し、かっちりとベッドメイキングするユーバー。
 いつの間に懐柔したのか、屋敷にただ一人残されていた執事と協力し、塵ひとつない状態に屋敷中を磨き上げているユーバー。やはり掃除の時は三角巾をして、エプロンをつけているのだろうか。
「……………あ、頭痛い…」
 思いっきりその場面を想像してしまい、余りの似合わなさにクリスはテーブルに突っ伏した。鎧を脱ぎ石造りのブラス城を出たあの時以来、様々な経験をして色々なものを見て、大抵のことには動じない余裕を身につけたつもりだったが、なかなか、世の中は広いというべきか。
 とはいえ、自分の想像にいつまでも撃沈されているわけにもいかない。
 むくりと顔だけを上げたクリスは、傍らに立つユーバーを見上げた。
「…………あのな、ユーバー。今度こそ、正直に言え」
 色違いの瞳を、偽りひとつ見逃さないよう、ひたと見据える。
 「紋章戦争」だけではない、今までにも「真なる紋章」が関わった戦にその姿を現し、数多の命を奪ってきた残酷な悪鬼。破壊の化身。
 けれど、クリスはふと思ったのだ。もしかしたら、そうした風評と敵対意識に妨げられて、この男にとっての真実を見逃してしまったのかもしれない、と。
「…なぜ、私の傍にいる?」
「お前を愛しているからだ、クリス」
 何の衒いもない答えが、するりと返ってきた。動揺も無く、気負いも無く、真実のみを告げているのだとわかる言葉が淡々と紡がれる。
「初めて逢ったときから、お前から目が離せなかった。セラに言わせればそれが『愛』というものなのだそうだ。そして『愛する』者の傍に居たいと願うのは自然なことなのだと。だから俺はお前の傍にいることを決めたのだ」
 ひとつひとつの段階はおかしくないのだが、全体的な帰結としては明らかに何かが間違っているような気がする。しかし、そう告げたユーバーの眼差しも声も 表情も、自然であり真摯だった。彼にとってはそこに、ひとつの偽りも無いのだとわかる。わかってしまっただけに、迂闊に反論できず、クリスは俯いた。
 それを好機と見てとったのか、言い募るユーバーの言葉の端々に熱が更にこもる。
「俺はお買い得だぞ。家事だってできるし、共に戦うこともできる。それに、長いお前の人生すべて、お前と共に居ることができる」
 ユーバーの言葉に、ちり、とクリスの瞳に一抹の痛みが過ぎった。
 亡き父より譲り受けた『真なる水の紋章』。それが右手に宿っている限り、永遠にゼクセンに居ることができないのは、明白だった。今はまだ考えなくてもす むが、何年かすれば身の振り方を考えねばならないだろう。石に覆われたこの街は、人外のモノには決して優しいとはいえないのだから。
 瞳を伏せ、黙り込んだクリスに、ユーバーは小さく口の端を持ち上げた。色違いの瞳に、微かな愉悦が過ぎる。
「…それとも、俺が憎いか? お前の父親を殺した俺を、憎んでいるのか?」
 さらりと告げられた言葉に、クリスはきゅ、と眉をしかめた。確かに、あの氷に閉ざされた遺跡で、血にまみれた父親の傍らには仮面の神官将とこの男が立っていた。無関係のはずがないし、実際ユーバー自身が明言している。
 けれど、と思うのは、父が死に瀕したまさにあのときまで、彼が父だと知らなかったからかもしれない。もしも彼が『紋章破壊者』一行の手にかからず、無事 に真なる水の紋章を宿し直していたら、彼は自分に名乗ったのだろうか。そして自分は、今のように暖かい気持ちで父を思うことができたのだろうか。自分と母 を棄てた男として、恨まずにいられただろうか。
 紋章を介して、言葉だけではない、魂のふれあいがあったからこそ、父が何を想い、残してくれたのか知ることができ、自分もそれらを認めて受け入れることができたのだと…言い切れずにいる自信はない。
「…………」
 思い起こすのは、父の最期のイメージだった。紋章を継いだとき、様々な情景が流れ込んできたけれども、一番最後に伝えられたのは、満足そうな笑顔だった。
 凶刃に倒れた痛みでもなく。後悔もなく。憤怒でも諦めでもなく。
 ただ、満ち足りた…幸せそうな、笑顔。
 唇を固く引き結び、険しい顔で遠くを睨みつけるクリスの髪に、ユーバーがそっと触れた。長い指が繊細に動いて、きつく編まれたクリスの髪を丁寧に解いてゆく。くせのない銀の髪が、さらりと流れる。
「それでも俺は構わないぞ。なんなら、お前が俺を憎みきれるよう、街のひとつやふたつ、滅ぼしてみせようか」
「なっ……お前、バカなことをッ…!」
 顔色を変えて思わず立ち上がったクリスの前で、ユーバーの表情は微かに綻んだ。色違いの双眸がまっすぐにクリスに向けられる。
「憎しみでも愛でも、俺にとってはどちらでも構わん。俺だけを想って生きてゆくのであれば、それはお前を独占するのと同じなのだから」
「…そんなことを、嬉しそうに言うな…」
「セラが教えてくれたのだ。愛憎は紙一重なのだと。想いのベクトルが異なるだけで、心を傾けていることに違いはないのだそうだ」
「………」
 得々と心持ち自慢げに、ユーバーが先ほどと同じ名前を出して語る。諸悪の根源といえなくもない魔術師の所業に、クリスはもう手の届かないところにいる彼 女を、脳裏でぎゅうぎゅうと締め上げた。まったく…余計なことを吹き込んでくれたおかげで、今の自分が苦労する羽目になる。
 すとんと椅子に座り直して、クリスは疲れきった表情で深く深くため息をついた。
「…………とにかく。悪いが、今はどちらも考えられん」
 父のことに関して、ユーバーを憎む気持ちはほとんどない。五行の紋章戦争で敵対したとはいえ、あの神官将だって己の信念に従って戦を起こした。ただ信念が相容れなかっただけで、そこに善悪の区別は無い。
 かといって、彼を『夫』として認めることなど、できるはずもない。ましてや『妻』など論外である。
 棚上げするようなクリスの言葉に反論するかと思いきや、ユーバーはふむ、と短く頷いた。
「…それもまた良かろう。お前にも俺にも、時間は無限にある。あせって答えを出す必要は無い」
「わかって貰えてよかったよ」
 延期という形ではあるが、心労から開放されて、クリスはほっと笑みを見せた。ただでさえ仕事で気苦労は多いのに、私生活でまで悩みを抱えることになったらやってられない、というのがクリスの本音でもある。
 だが。
「…料理が冷えてしまったな。温めなおしてくる」
「ああ。頼む」
「それから、食後のデザートは洋梨のカスタードタルトと苺のムース、どちらがいい?」
「う~ん…今日の気分は洋梨かな…?」
「わかった。少し待っていろ」

 

 クリスは気づいていない。
 現状で棚上げということは、夕方5時になると拉致されるという今の生活が、これからも続くということを。
 翌日、餌付けされつつある現状に、クリスが再び頭を抱えたのは言うまでもない。

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