白雪奇譚

「白雪?」
「そう。今がちょうど綺麗な頃合なんですよ」
 目を瞬かせて問い返したクリスに、その女性がにこりと笑った。年の頃は40後半ぐらいだろうか、ちらほらと髪に白いものが混じり始めているが、その笑顔 は意外と若々しい。陽春と名乗った彼女は、ひとりでたくましくこの宿を切り盛りしているのだそうだ。人懐こい笑顔にもう一度首をかしげて、クリスはぼんや りと問い返した。
「すいません、その『白雪』っていうのは…?」
「ああ」
 クリスの疑問は珍しくないのだろう、得心がいったように短く頷いた陽春は、もう一度にこりと笑いながら、手早く卓の上に料理を並べていく。てきぱきとし たその動きはなぜか母を思い出させて、ヒューゴは僅かに目を細めた。クリスも同じことを感じたらしく、目元が少しだけ柔らかくなる。今はどうしているのか 知らないが…きっと年など考えず、あいかわらずクランの男達を叱り飛ばしているに違いない。
「『白雪』というのは桜の名前なんですよ。ここから少し先にある丘の上に、桜の木が一本ありましてね。近所の人たちみんなそこへ花見に行くんで、このあたりじゃ有名なんですよ」
「へぇ…」
 陽春の言葉に、クリスとヒューゴは揃って感嘆の声をあげた。ところ変われば、ということだろうか。桜の花をわざわざ見に行くなど、ゼクセンやグラスラン ドではなかった風習だが、このあたりでは普通にあることなのだろう。長い年月をかけて大陸のあちこちを旅して回っている二人ではあるが、いまだに知らない ことがあるのは新鮮な驚きでもあった。もっとも、こういうものは時期の問題もあるのかもしれない。
「昼も綺麗なんですけどね。夜のほうがもっと綺麗ですから…よければお食事の後にでも、お花見に行かれたらどうです?」
「………ヒューゴ」
 料理を並べ終え、すっと優雅に下がりながらの陽春の言葉に、クリスはさっとヒューゴに視線を向けた。子犬のように純真な眼差しに、思わず見えない茶色の耳と尻尾を見たような気がして、ヒューゴは小さく溜息をついた。
 正直ヒューゴとしては、花を見たからといって何が変わるわけでもない、と思ってしまう。桜の花自体ならヒューゴも見たこともあるし、第一花を見たからと いって腹が膨れるわけでもない以上、夕食のあとはまったりごろごろして、明日に備え疲れを取るほうがよほど有益だと思うのだが…反面、美しいものに惹かれ る女性の気持ちがわからないでもない。単純に気持ちの問題なのだろう。
 そんなクリスに、ヒューゴが敵うわけもなく。
「………先にご飯食べたい」
「ありがとう、ヒューゴ」
 子供のように歓声を上げるクリスと、しょうがないとばかりに肩を竦めるヒューゴに、陽春は「ごゆっくりどうぞ」と美しい笑みを向けた。


 濃紺の夜空にぽかりと満月が浮かんでいる。そのため、灯りはほとんど必要なかった。怖いほどの光が押寄せる中、クリスと並んでヒューゴは黙々と歩を進め る。時折風が吹いて草が擦れる音と…クリスの規則正しい呼吸音が耳に響く。季節がまだ早いのだろう、虫の音は聞こえない。
 地面に落としていた視線を、ちらりと横に向ける。まっすぐ前を向いて歩く横顔が、凛としていて美しい。
 何より。
「…どうかしたのか?」
「いや」
 視線に気づき、問いかけてきたクリスから目を逸らして、ヒューゴはぽつりと呟いた。不審さの残る答え方に、暫くクリスは首をかしげていたが、意外とあっ さり前へ向き直る。対象が彼女自身でなく、またとくに不都合がない限り、恐ろしいほどの速さでさっぱりと割り切る姿勢は、いっそ男らしいとさえ評すること ができるだろう。かつては故国を守る盾と剣として生きてきた彼女は、騎士団を辞めてからの年月のほうがはるかに長いにも関わらず、騎士団にいた頃の気質が まだ抜けないのか、変に潔いのだ。
 にも関わらず、外見だけはまるで女神か精霊のように美しいときている。半分見慣れているヒューゴだが、それでも偶に外見と中身のギャップに驚いてしまうことがある。
 ましてや、今は、いつもの恰好とは違うのだ。
 普段は背中に無造作に流している髪を、今はゆったりと結い上げているせいで、細い首筋が月光のもと露わになっている。石膏のように白い首筋の上に、はら りと零れ落ちている数本の後れ毛がきらきらと光り、妙に艶かしい。剣を縦横無尽に振るとは思えない華奢な肢体は、今はこの地方独特の民族衣装に包まれてい る。着物と呼ばれるそれは、ほっそりとしたクリスの身体にぴったりで、すらりとした立ち姿が普段以上に映えて見える。柔らかい鴇色の生地に幾つもの花が刺 繍で刻まれた着物を、銀と見紛うような白い帯で留めているのだが、よくよく見ると、うっすらと桃色で花がかかれていた。
 着方すら解らないそれをクリスに着せたのは、陽春だ。どうせだからといって着物を持ち出した彼女は、仕事と同じようにてきぱきと、クリスに着物を着せた らしい。…らしい、というのは、ヒューゴは部屋を追い出されて現場を目撃していないからだ。陽春の亡くなった娘が気に入っていたというその着物は、若々し い容ぼうのクリスによく似合って、瑞々しい色気が仄かに漂っている。
 直視できないけれど、完全に意識から外すこともできず…結局、ちらちらと隣を窺いながら、ヒューゴはひたすら歩を進める。
「………?」
 ふと、隣のクリスが足を止めた。気配に気づいて、ヒューゴは地面に落としていた視線を隣に向ける。まっすぐに前を見つめるクリスに、つられるように前方を向いたヒューゴは、一瞬息を呑んだ。
 満月を背に、白い木が丘の上にぼんやりと浮かんでいる。満開の桜の花は、まるで木を包むかのように咲き誇っていた。清純な白い花弁がはらはらと零れ落ちながら風にそよぐ様は、清廉でありながらどこか、妖艶な美しさに満ちている。クリスのようだ、とふと思った。
「…………綺麗、だな…」
「…うん……」
 言葉少なに、ゆっくりと桜の樹に近寄る。視界一杯に広がる花びらは、圧倒的だった。ひとつひとつの花は小さいのに、そのかたまりが物理的な圧迫感さえ 伴って押し迫ってくるように感じる。氷の中に倒れこんだ時のような、冷ややかな感触がひたひたと胸に染み込んでくる。不安にかられ隣を見ると、クリスは子 供のように目を輝かせて桜の木を見上げていた。
 くすりと小さな笑みが浮かぶ。畏怖に立ちすくんでしまった自分とは大違いで、クリスは純粋にこの光景を楽しんでいるようだった。いつだって彼女はそうやって自然体のまま、袋小路に迷い込みそうになったヒューゴを引き戻してくれる。
 素直に感謝するのも今更照れくさいし…何より、クリス自身そんな特別な何かをしたわけではないと言うに決まっている。わざと意地悪な笑みを浮かべると、ヒューゴはクリスを小さくつついた。
「クリスさん、口が開きっぱなし」
「あわわ…」
 慌てて口を閉ざしたクリスは、いささかばつが悪そうに、ヒューゴに振り向いた。言い訳をしようと口を開きかけたクリスの機先を制して、にっこり笑顔で手に提げていた竹の筒を軽く揺らしてみせる。
「飲む?」
「………ヒューゴの意地悪…」
 口を尖らせて、クリスは小さく呟くと、ぺたんと樹の下に座り込んだ。ばしばしと乱暴な仕草で、自分の隣を指す。明らかな照れ隠しに、ヒューゴはもう一度笑うと素直にクリスの隣に腰を下ろした。


 きゅぽん、と竹筒の封を切ると、爽やかな香りが立ち上り、ヒューゴの鼻をくすぐった。同じように持ってきた小さな木の器ふたつに、そっと丁寧に酒を注ぐ。ひとつをクリスに手渡して、ひとつに口をつけてみる。
「………変な味…」
「そうか?」
 一舐めで顔をしかめたヒューゴとは対照的に、クリスにとってはそれが美味しく感じたようだった。嬉しそうに目を細め、少しずつ飲んでいる。ちらりと横目でそれを確認したヒューゴは、もう一度舐めてみるが、やっぱりヒューゴには合わないようだった。
 不味いわけではない。多分、美味しい、のかもしれない。水のようにさらりとした口当たりも、口に含んだ途端広がる風味も、少しきりりとした味わいも、悪 くはないのだが…正直に言えば、もっと甘い果実酒のほうが素直に美味しいと思う。口に出すとまたクリスに、「ヒューゴはまだ子供だからなぁ…」などとした り顔で言われるだろうから、実際に言いはしないけれども。
 さらさらと、風が吹くたびに白い花びらが少しずつ舞い落ちる。濃紺の夜空にひらり落ちる花は、雪のような透明感がある。満月と、花と、雪とを同時に見ているような贅沢さに、ヒューゴは無言のまま、ちまちまと酒を舐めた。
 言葉は不思議と出てこなかった。きっと自分のクリスに対する気持ちと同じで、改めて口にすればきっと薄っぺらく響いてしまう気がするのだ。何も言葉にし なくても、ただクリスと並んで同じ物を眺め…いや、もっと言ってしまえば、ただ同じ時間と空間を共有するだけで、満たされるものがあるのだ。
 そうして、どれほどの時間が経ったか。
「……?」
 不意に、ことんと肩に重みを感じて、ヒューゴは隣に視線を向けた。ヒューゴの肩に頭を乗せるような形で、クリスがすーすーと寝息を立てている。酒のせい もあるだろうが、おそらく溜まった疲れのせいもあるのだろう。旅には慣れているけれど、それでも一日中歩くと、それなりに疲労が蓄積する。それはヒューゴ も同じで、気づかないうちに少しずつ眠気が襲ってきているようだった。瞼の裏がやけにちくちくする。
 そろそろ部屋に戻ったほうがいいかもしれないが、深く寝ているらしいクリスをわざわざ起こすのも躊躇われる。かといって、このまま置いておけば風邪を引 くかもしれない。宿まで負ぶって戻るには、微妙に距離がある。子供のままの自分では、無事に宿まで戻れるか怪しいものがあった。こういうときばかりは、右 手に宿る紋章が恨めしく思える。
(……俺にもっと身長があればなぁ…)
 真なる紋章を宿したその時から、ヒューゴの成長は止まっている。慰めか真実か、クリスは「少しずつ成長しているようだぞ」と言ってくれているが、ヒュー ゴにその実感はない。クリスを見上げる角度はずっと変わらないし…真の紋章を宿している限り、これからも変わることはないだろう。
 はぁ、と溜息をついて、ヒューゴは手のひらに落とした視線を、遠く満月に向けた。
 今更言っても仕方のないことを、改めて思ってしまうのは、きっとヒューゴも知らぬ間に酔って、思考がぐだぐだになっているからだろう。そうに違いないと 思いたかった。こんなに感傷的になっているのも、弱気になっているのも、みんな酔いのせいで…明日になればきっと、いつものように歩き出せる、はずだか ら。
(……………とりあえずは、どうするかな…)
 当面の問題は、やはりクリスをどうするか、だろう。ぼんやりと暫くクリスを見ていたヒューゴだったが、ふと丘の下、陽春が向かってくるのが見えた。何時 まで経っても戻ってこない二人を心配したのかもしれない。他人の手を煩わせるのは申しわけない気もするが、2人がかりだったら宿までクリスを運べる。ある いは、陽春と話している間に、クリスが起きることだってある。
 微かな安堵と、2人だけの時間が終わることへの僅かな残念さとを浮かべて、ヒューゴは陽春に手を振って呼びかけ――。
「……ッ!?」
 ぴくりとも動かない自分の身体に、ヒューゴは愕然とした。声をあげようとしても、辛うじて口は開くのに声は出ないのだ。中途半端に吐き出された空気が、夜風に紛れて消える。
(どういう、こと……!?)
 驚愕に意識が醒めるわけでもなく、あいかわらず油断をすれば眠りの闇に堕ちてしまいそうだった。懸命に眼に力を込めて、近づいてくる陽春に無言のうちに 異状を訴えかける。だが、陽春は音もなく静かに歩み寄ると、そっとクリスの頬に手を滑らせた。ヒューゴなどまったく視界に入っていないのだろう、視線一つ 交わらないその仕草に、ぞくりとヒューゴの背が粟立つ。
 この異状は、本当に、酔いのせいだけなのか。あるいは。
「………よく眠っているのね…」
 さらりと紡がれる言葉は、波一つ立たない湖のような静けさに満ちている。穏かで穏かで…だからこそ異様だ。
 人の気配に目覚めることなく深い眠りに就いているクリスと、大きく眼を瞠ったままぴくりともしないヒューゴと。それを見て、違和感を覚えない人間がいるとするならば、それは予めその事態を想定できた人間だけだろう。
 それこそ、クリスとヒューゴが飲んだ酒に、何がしかの薬を混ぜた本人のような。
「これなら、あの娘も満足してくれるわ…」
 うっとりと夢見るように呟きながら、陽春はクリスをそっと抱き上げた。力なく投げ出されたクリスの腕が宙に浮いて、長い袖がひらり揺れる。クリスはさほ ど小柄ではなく、抱きかかえて歩くには相当な力がいるはずなのだが、陽春は危うげなく歩を進めると、桜の樹にそっとクリスを下ろした。
 どくん、と樹が大きく脈打つ。
「…………ッ!」
 桜の樹が、イキモノのように収縮を繰り返しながら、少しずつクリスの身体を飲み込んでゆく。半分ほど幹に埋まったところで、満足そうにクリスを見下ろしていた陽春は、クリスの髪をまとめていた簪をすっと引き抜いた。灰色の幹に銀の髪がさらさらと散る。
 憤りにぎり、とヒューゴは噛み締めた奥歯を鳴らした。殺意さえ込めた眼差しでひたすらに見詰めるヒューゴの先で、引き抜いた簪を、陽春が逆手に握る。濃紺の夜空に銀色の奇跡を描いて、それは振り下ろされた。
(やめろ――――ッ!!)
 白いクリスの手首に、紅い珠がぷつりと浮かび、細い筋をつけながら少しずつ滴り落ちる。同時に、ずぶずぶとクリスの腕が樹に埋もれてゆく。風もないのに 梢がざらざらと揺れる音は、まるで樹が歓喜の声をあげているかのように響いた。クリスの鮮血を少しずつ吸い取っているのだろう、根元に近いほうから少しず つ、白い花が淡い桃色へと染まってゆく。普通なら痛みに目が覚めるだろうに、クリスは双眸を閉ざしたままだった。
 強く握り締めたこぶしが白くなる。てのひらに爪が食い込んで痛みを訴えかけていたが、ヒューゴは手にこめた力を緩めなかった。痛みが熱を伴って、全身を緩やかに巡る。薬による眠りを上回る怒りに、意識が急速に覚醒してゆく。
 このまま見過ごすわけにはいかない。自分が動かなければ、大切なひとを永遠に喪ってしまう。鉛でできた身体を無理やり動かすような強引さで、ヒューゴは ぎしぎしと軋む足を前に踏み出した。うまくバランスをとれず、地面に膝をついてしまうが、視線は桜の樹から離さない。
 ふわり、と優雅に陽春が振り向いた。夕方、ヒューゴとクリスに向かって愛想良く、はきはきと喋っていた面影はもう無い。ただぼんやりとした狂気が陽春の中で渦巻いているようだった。
「…あなた、邪魔をするの……?」
「………するに、…決まってる……!」
 まだ上手く回らない舌をそれでも動かして、ヒューゴははっきりと言い切った。身体を支えるために地面についた右手が、少しずつ熱を帯びてゆく。右手の甲に刻まれた呪いの証が、淡い燐光を放ち始める。
 刹那、強烈な衝撃が音もなくヒューゴの意識を揺さぶった。くらり、と泳ぎかけた上体を、慌てて立て直す。いささか手段が手荒ではあるが、そこに悪意はな かった。真なる炎の紋章が鮮やかな光を放ち、それを介して強引に意識が繋がれる。紋章の共鳴を利用して伝えることができるのは、長い間共に歩いてきたクリ スだからこそだ。

『おかあさま、だいすき!』
『あなたは私の宝物よ、白雪』

(…これは…)
 古びて色褪せた世界に微笑む少女と母親。母親が陽春で、幼い少女が彼女の娘なのだと、教わるでもなくすぐに解った。これは、桜に取り込まれることでクリスが触れた、陽春の記憶だろう。
 夫を亡くし、娘と2人きりの生活は決して裕福ではなかったが、それでも不幸ではなかった。峠の宿屋には大勢の旅人が訪れ、そして去ってゆく。別れは何時だって寂しいものだけれど、隣には常に娘がいた。今までも、これからもずっと傍らにいるのだと信じて疑わなかった。
 けれど、移ろいゆく季節は、いつしか幼い少女を年頃の娘へと変貌させる。

『母様、わたしあの人と一緒に行きたいの』

 突然そう告げた娘の顔は、ひとりの女のものだった。こんな人間は知らない。娘はもっと愛らしく、自分を見捨てるようなこともなく、いつだって 一緒にいるはずなのだ。宿に泊まった男と一目で恋に落ち、共に行こうとするなど、ありえるわけがない。そんなものは知らない、認めない、赦せない。
 だから。

『やめて、母様、苦しい、お願い助けて…!』

 娘と同じ名の桜が舞い散る中、泣き叫ぶ娘を手にかけ、樹の下に埋めて。自分の手で壊した現実に耐え切れなかった陽春は、桜の樹に娘が同化してゆく幻を見た。見たと、信じた。
 古来、桜には妖しのものが憑くという。白雪は、それと同じものになったのだ。人の死骸を糧に艶やかに咲くという桜、ならば若い娘を捧げれば白雪はますま す美しく咲くだろう。そして、いつの日かそれらをもとに現のものとなって帰ってくるに違いない。事実、桜には年を経るごとに妖しの力が宿っていくようだっ た。いつしか白雪も、積極的に生贄を受け入れるようになっていった。
 白雪が咲く季節になると、宿を取った若い娘に着物を着せ、白雪に捧げる。何人も何人も、年を重ねるたびに、娘が戻ってくることを信じて。そして今年もまた。
「………あなたの気持ちはわかるよ…」
 ヒューゴの緑柱石の瞳から、つと涙が零れ落ちた。大切なものを喪った痛みは、ヒューゴもよく知っている。取り戻せない毎日は辛く、どれほど恨んで、憎んで、眠れない夜を過ごしてきたか、まだ憶えている。
 だが、だからといって、再び大切なものを喪うわけにはいかない。そこまでお人よしにはできていない。陽春の苦しみは解るが、そのためにクリスを犠牲にす るなど、認められるわけがない。陽春を癒すよりも何よりも、自分とクリスが大切だから。たとえそれが自分のエゴだと知っていても。
「けど…クリスさんは返してもらうから…!」
 手の甲で乱暴に涙を拭うと、ヒューゴはまだ上手く力が入らない足を内心で叱咤して、ゆっくりと立ち上がった。率直な怒りで瞳を燃やして、真直ぐに桜の樹 を睨みつける。ヒューゴが共鳴に眩んでいる間に、クリスはさらに下半身をすっぽりと飲み込まれていた。もうこれ以上猶予は無い。
 痺れの残る右手を、左手で支える。真なる炎の紋章が鮮やかな真紅の光を放ち始める。
「くっ…」
 時折邪魔をするように意識を揺らめかせる共鳴を、ヒューゴは唇をかんでやり過ごす。ヒューゴの意図を悟ったクリスが、桜に取り込まれつつあるというの に、ヒューゴを留めようとしているのだ。何しろお人よしな彼女だから、どうせできるだけ陽春を傷つけたくないとでも思っているのだろう。ヒューゴも、クリ スが傷つけられていなければ大いに賛同しただろうが…今は、とてもそんな寛容な気にはなれない。
 それに、おそらく無理な話だ。これほど魔と馴染んでしまっている彼女は、きっと喪失に耐えられない。それでも。
「……………灼き、つくせ…!」
「―――――――――――ッッ!!」
 開いた右手でざっと空を薙ぐのと同時に、ごう、と沸き立った炎が桜を包んだ。刹那、陽春の喉から声にならない絶叫が迸る。途端に、クリスからの妨害が強 まって、意識がぎしりと軋んだ。目の前がかちりと一瞬闇に閉ざされる。すぐに視界は戻ったものの、辛うじて立っていられた足の力が抜けて、再び地面に崩れ 落ちる。
(やめて…!)
 紋章を伝って、クリスが拒絶の意志をぶつけてくる。この期に及んで尚、陽春を気遣うクリスに、ヒューゴはふ、と辛らつな笑みを浮かべた。両膝を折り、辛うじて上体を起こしているだけの無様な恰好だが、桜にむける眼差しの強さはいささかも衰えていない。
「だめだよ、クリスさん…俺はね、貴女を傷つけるモノを、赦すつもりなんかないから」
 炎が生み出す風によって、地面に降り積もる雪のような花びらが音を立てて巻き起こる。一瞬視界が閉ざされたあと、丘の上の桜は、灰さえ残さずに消失して いた。代わりに、いまだ昏々と眠り続けているクリスと、地面から助けを求めるかのように突き出している、雪のように白い白い…数多の人骨の腕だけが残され ている。間違いなくそれは、陽春によって白雪に捧げられ、命を奪われた娘達の名残だ。
「…お休み…」
 優しいとさえ言える囁きは、花の欠片と共に風に攫われ、消えていった。


 柔らかい風が、銀の髪を散らしてゆく。誘われるように小さな呟きを零しながら、髪と同じ色の長い睫が微かに震えた。ゆっくりとした瞬きを繰り返して、ぽかりと双眸が開く。いつもはきりりとした光を宿す菫の瞳が、今は少し煙っているようだった。
 無理もないことだ。ヒューゴが見せられた光景はそのまま、クリスが見たものでもあるのだろう。あるいは、クリスを介して視たヒューゴよりも直に視ている 分、クリスのほうがより白雪や陽春に同調してしまったのかもしれない。強く、戦に関しては非情な割り切りもできるわりに、ひどく脆い一面もあわせ持つクリ スなら、なおさらだろう。
 だから。
「…夢、なら良かったのに…」
 ぽつりと呟かれた声が濡れた響きであるのも、蒼褪めた頬を一筋の涙が伝わり落ちるのも、予想できたことだった。穏かな表情を髪の毛一筋分も動かさず、ヒューゴはただ穏かな声音で告げる。
「そう、夢だよ……………」
 ゆるゆると涙を溢れさせる双眸を、手のひらで軽く押さえる。何も視なくていい。何も聴かなくていい。このまま再びの眠りにつき、全てを忘れてしまえば、それでいい。
「かなしいことは、ぜんぶ、夢……だから、忘れてもいいんだよ……」
 揃えて投げ出した足の上に、クリスの頭が柔らかい重みを伝えてくる。さらさらと零れる髪を丁寧に梳きながら、ヒューゴは小さくわらった。
 本当ならば、桜の木を全て燃やしてしまう必要はなかった。加減がしにくかったというのもあるが、それでもクリスが助かる分だけ、全てを燃やし尽くさなけ れば、少なくとも陽春は助かっていただろう。それを選ばなかったのは、単純に自分のエゴだ。クリスを傷つけたものは存在しつづけることも…記憶という存在 した証さえも赦さない、そんな我侭を押し通した。
 はらりと零れ落ちる髪をひと掬い手にとって、そっとくちづける。
 髪の一筋までも、他者が触れることを赦さない…そんな狭量な心が醜いものだと解ってはいるのだ。けれどそれを好しとしてしまっている自分がいることも、 ヒューゴは知っている。陽春以上の魔が巣食っているとしか思えないほど、肥大しきった独占欲…けれど陽春と違うのは、それを留めるものは居ないというこ と。だからこそ、ヒューゴは自分の意志でそれを押し留めなければならないのだ。今夜のように、クリスを泣かせてしまわないためにも。
「………………まぁ、全部桜のせい、ということでいいよね………?」
 小さく呟いて、ヒューゴはゆっくりと瞼を閉ざした。薄闇の脳裏に、先ほどみた蜜色の満月が鮮やかに甦る。濃紺の夜空に、もう白い花片は吹雪いていない。

 それは、淡く溶ける春の幻。

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