「バレンタイン」
そう繰り返したクリスは、変なものでも飲み込んだような、妙な表情を浮かべた。普段はきり、と引き締まった表情をしている彼女だが、今みたいにふと気を抜いた瞬間、年齢よりもあどけなく見えてしまう。
自分よりずっと年上のはずなのに。
(かわいいな)
そんなことまで思ってしまう。もっとも口に出したが最後、密かに負けず嫌いな彼女はムキになって大人ぶろうとするに違いないけれども。
「…の、プレゼント」
小さな箱を差し出したヒューゴの前で、やっぱり複雑な表情で、クリスはぽつりと呟いた。未だに受け取ろうとしないその様子に、ヒューゴは小さく首をかしげる。
『2月14日はね、バレンタイン・デーというのよ』
そう教えてくれたのは、ヒューゴとクリス共通の友人リリィだ。世間知らずで我儘なお嬢様ではあるけれども、遊学中ということもあってかいろんな文化や風 習に詳しい。ゼクセンでは2月14日、好きな異性に菓子をプレゼントする風習がある、とこっそり教えてくれたのもリリィだ。カラヤではそんな習慣は無かっ たけれども、クリスが生まれ育ったゼクセンの習慣に習って、自分からもクリスに何かプレゼントしたかった。だから、わざわざこっそりとメイミにキッチンを 貸してもらって、自分でクッキーを焼いたのだ。
『ありがとう』
花が零れ落ちるような美しい笑みを浮かべて、受け取ってくれるとばかり思っていたのに。
「……クリスさん?」
何か考え込んだままぴくりとも動かないクリスに、ヒューゴの表情に不安が一滴落とされる。
リリィの言を、時間が無かったからといって裏を確かめずに信用したのは、やはりまずかっただろうか。彼女は日常の役に立ちそうも無いゴシップ方面限定で 博学であることに違いないが、同時にヒューゴの予想外のところに、意識的か無意識にか落とし穴をしかけていそうでもある。
不安に足首を掴まれそうになった頃、ようやくゆっくりとクリスの手が差し出された。見慣れた白い手に、なぜか小さな違和感が閃く。
「あの、ありがとう、ヒューゴ」
「…………ちょっと待って」
まだかすかにぎこちない微笑を浮かべて、丁寧に包装された小箱を受け取ったクリスの手を、ヒューゴは咄嗟にがしっと握り締めた。まさかこの期に及んで制止されるとは思ってもいなかったようで、紫の瞳が不思議そうに瞬く。
「どう…」
「あのさ、クリスさん」
どうしたの、という疑問の声を強引に遮って、ヒューゴは掴んだ手をじっと見詰める。
剣を扱っているせいか、多少ふしくれだってごつごつしているが、それでも同じように戦いを知っているルシアの手よりも、細くしなやかで美しい。その白い手が白刃を振るい、幾つもの命を奪い…同時に幾つもの命を護ってきたのを、ヒューゴは知っている。
その、クリスの手に。
昨日までは無かった小さな傷が、いくつもつけられていた。よく見ると切り傷のほかに、火傷の跡らしいものもある。
「どうしたの、これ?」
「ど、ど、どうしたって…………別に、大した事じゃない」
あからさまに動揺している言葉に、ヒューゴの眼差しが険しさを増した。こんな風に誤魔化しているときは、大抵嘘をついているときか、後ろめたいことがあるときだ。
大した事じゃないのが嘘か。あるいはもっと重大な何かを隠しているのか。
些細なことならば問題は無いかもしれない。けれども、例えば…誰かに襲われたとか。そんなことであったら、見過ごすわけにはいかない。とかく他人には甘えず頼らず、自分ひとりで何とかしようと無理をする彼女だけに、ヒューゴとしては気が抜けない。
小さな仕草ひとつ見逃さないよう、ヒューゴの視線が鋭くなり、手には更に力がこもる。
「大した事じゃないんだったら、ちゃんと話して」
「………話せば、手を離してくれるのか?」
「多分ね」
「むぅ…」
確約ではない返答に、クリスが短く唸る。僅かに唇を尖らせて、軽く睨んでくるその表情は、凶悪なまでにかわいらしい。思わず「ま、いいか」と甘やかしそうな理性をぐっと引き締めて、クリスを見上げる瞳に力を込める。
ややあって。
「…ヒューゴは」
ぽつん。
雨だれが水に響くような静かな声が、そっと唇から押し出された。クリスの手を握る力をほんの少しだけ弱めると、ゆっくりと次の言葉が紡がれる。
「…誰に、バレンタインのことを聞いたんだ?」
「リリイさんだけど」
「………やっぱりそうか」
即答したヒューゴの前で、はぁ、とクリスが諦めの溜息をつく。疑問が浮かぶと同時に、ことんと何かがヒューゴの胸に落ちた。案の定、というべきだろう、やはり元凶はリリィであるらしい。
「どういう、コト?」
「リリィがどういう説明をしたか知らないけれど。ゼクセンでは、今日は女性から男性に甘いお菓子を贈るという風習があって」
「………」
この時点で既にリリィの説明と異なっていて、ヒューゴは頭痛さえ感じてきそうだった。確かにクリスは戦場においては年頃の少年達が憧れる勇ましさがあるが、ヒューゴは内に隠されている繊細な魂を知っているし…何よりヒューゴは『女性』ではない。
しかも。
「で、女性の気持ちを受け入れた男性は、一ヵ月後に贈物をするんだけど…」
「…うん」
少しずつ小さくなってゆくクリスの声に、嫌な予感が刺激されるが、自分から聞きだそうとしたことである。ここはやはり最後まで聞きださなければならないだろう。
妙な義務感に後押しされて、無言のまま眼差しだけで先を促す。しばらく言いにくそうに躊躇っていたクリスだったが、意を決するように重々しく口を開いた。
「…女性の気持ちを受け取れない男性は。やっぱり、ほら…面と向かって断るのは言いにくいから」
「………う、ん」
「だから。その。…『いい友達でいましょう』とか『ありがとう』とかそんな意味をこめて、優しく遠まわしに断るのに………………その日の内に、何か小さな物を贈り返すんだ」
当日。2月14日。今日、この日に。
小さなものを。
「…………………うぇ?」
かなりの空白をおいて、思わずヒューゴは間の抜けた声を上げた。クリスの言葉がじわじわとしみこんでくるにしたがって、事の重大さが解ってきたのだ。
つまり、自分は、大事な女性に向かって図らずも、『貴女の気持ちは嬉しいけれども、いいお友達でいましょうね』と告げたのだ。
「ちっ、違っ、俺はクリスさんにそういうコト言いたいんじゃなくってっ…!」
「…みたいだな。だから、すごくびっくりしてしまって」
思わず両手を離し、懸命に弁明を始めるヒューゴの慌てぶりに、クリスは逆に落ち着いてしまったらしい。ほんのりと笑みを浮かべながら、暢気にそんな感想を言ってのける。
とりあえず、これでヒューゴが小箱を渡そうとしたとき、クリスが複雑な表情をしていた理由はわかった。昨日までは確かに相思相愛だった相手から、今まで何のそぶりも見せていなかったのに突然嬉しそうに別れを切り出されたら、そりゃ誰だって焦るだろうし、驚くだろう。
だが、問題はもうひとつある。
「…ところで、この傷はなんだったの?」
「そ、それは…言わなきゃダメか?」
「ダメ」
はっきりきっぱり一言で却下したヒューゴに、クリスははふぅ、と溜息をついて立ち上がった。見守るヒューゴの前で、机の上においてあった小さな箱を手に取ると、ヒューゴにそっと手渡す。
「クリスさん?」
「……わたしから、ヒューゴへのプレゼントだ。ブラス城でそれを作ってて、ちょっとケガしただけだ」
手の中の箱は、綺麗な光沢のリボンで閉じられているものの、包み方自体は少し歪になっている。多分、クリス自身がラッピングしたのだろう。
戦いに関しては天才的だが、指先は基本的に超絶的に不器用なクリスが、自分で菓子を作り、自分でラッピングするのに、どれだけの時間がかかったのだろう。きっと、何度も何度も失敗して、やり直したに違いない。
…他でもない、ヒューゴのために。
口許が自然と綻ぶのが、自分でもわかる。
「これを…本当に、俺に?」
「本当だ。それなのに、ヒューゴときたらわたしの気持ちも知らないで、プレゼントを今日くれるし…」
「それは俺じゃなくて、リリィさんが悪いんだよ」
「そうだな、後でリリィには文句を言わなければな」
妙なすれ違いを思い起こし、ソファにゆったりと座りなおしたクリスが苦笑を浮かべる。
確かに、リリィが余計なことを言い出さなければ、もっと順当に、素直に、このプレゼントを受け取ることが出来たはずだ。ヒューゴだって、余計な心配などせずにすんだはずで。
けれどまぁ、紆余曲折を経たとはいえ、一応きちんと納まるところに納まったのだから、良しとしなければならないだろう。
しゅるる、と丁寧にリボンを解き、箱を開ける。そこには、やっぱり歪な…球形とは少し言いがたいこげ茶色の物体が3つ、並んで収まっていた。ふわりと甘い香りが漂って、ヒューゴの鼻をくすぐる。
「クリスさん、これ、俺にくれないつもりだったの?」
「…誤解があったとはいえ、ヒューゴにいらない、って言われたような気がして…悔しくなったんだ」
「ふぅん…」
控えめなクリスらしいといえばクリスらしい。けれどもそこで、周りの迷惑顧みず求めて欲しいと思う気持ちも、無いではない。
リリィほど周りを見ないのも困り者だけれども。
「いただきます」
ひょい、とひとつつまんで、口の中に放り込む。少しずつ口の中で溶けていく甘いチョコレートは、どこかほろ苦く、大人の味がした。見た目こそは少し悪いが、味のほうはまったく問題ない。むしろ、これをあのクリスが?と驚くほどだ。
「すっごく、美味しい」
「そうか、良かった…サロメに教わったんだけど、なかなか上手くできなくて」
「………」
そういう人だというのは知っているし、彼女にとって『一番』は自分だとも知っているけれども。
せめて今日ばかりは、他の男の名前を出して欲しくなかったけれども。
「…ま、いっか」
「? 何がだ、ヒューゴ」
「んーん、なんでもない」
「ずるいぞ、自分ばっかり『なんでもない』って…わたしにはごまかさせてくれなかったくせに」
「俺はいいんです。それよりもクリスさん、俺が渡したやつ、ふたりで一緒に食べれば『贈物』にはならないんじゃない?」
ひょいと話題がすりかえられたことに気づかず、クリスはこくん、と首をかしげた。このへんが、ヒューゴとクリスの大きな違いなのかもしれない。
「中身は食べ物なのか?」
「クッキー。俺が焼いたやつなんだ」
「そうか…じゃあ、それに合うようなお茶をもう一杯、淹れようか」
「ん、ありがと」
「よし、ちょっと待ってて」
お茶を淹れるべくぱたぱたと動き回る後姿を見送りながら、ヒューゴはもう一個、チョコレートをつまんだ。
強く濃い甘さは、強烈で。一度口にしてしまえば、二度と手放せなくなってしまう、強い魅力でこちらを捕らえて。口の中が甘く乾いて、もっともっと欲しくなってしまう。
「………クリスさんみたい」
聞こえないように呟いて、ヒューゴは受け取った想いの甘さを存分に味わったのだった。
おまけ:
「そういえばヒューゴ、知ってたか?」
「何を?」
「昔、チョコレートは媚薬として使われていたとかなんとか…」
「へえ……」
「いや、本当かどうか知らないけれど。昔、誰かがそう言ってたような気がするだけで…」
「うん」
「………だから、確信があるわけでもなくって…実際どうかは知らないし…」
「うん。…ちなみに、なんで逃げようとしているわけ?」
「だって、絶対なにか企んでるだろ!」
「企んでるだなんて人聞きが悪いなぁ。ただ俺は…」
「ひゃんっ」
「…媚薬を、贈ってくれたクリスさんに、誠心誠意をこめて、責任を取って欲しいだけだからさ」
「それを企んでるっていうんだ!」
「これは俺のせいじゃないよ、チョコレートのせいってコトで」
「…来年はっ、絶対にチョコなんて贈らないからなーっ!」
クリスの叫びが叶えられるかどうか。
ヒューゴ以外、知る者はいない…。
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