きつく結い上げていた髪を少しずつ梳き解して、クリスはほぅ…と溜息をついた。解かれた銀の髪が、しなやかにうなじを滑り落ちる。鎧を脱ぎ、髪を解いてようやく、何も纏わない本当の自分に戻れたような気持ちがする。
ビュッデヒュッケ城の中に与えられた私室。その中に置かれたソファにゆったりと腰掛けて、クリスはもう一度溜息をつく。
「……………疲れた……」
湖畔の城に移ってからというもの、クリスの日常は容易に『多忙』の二文字で表されるものとなっていた。身体が鈍らないよう自身の鍛錬はもちろん、グラス ランド諸部族との折衝、金と同時に口もやたらと出したがるゼクセン評議会の相手、騎士団のもともとの任務でもあるゼクセン領の治安維持、それにまつわる雑 務など、数え上げれたきりが無い。今日はそれに加え、ゼクセンとグラスランド合同で集団戦闘の訓練まであったのだ。
鎧を纏い、馬を駆り、戦場の中で部下を率い戦うことなど、クリスにとっては苦ではない。だがそれは、あくまでも『気心の知れた部下』と一緒であった場合だ。未だ一枚岩とは言い切りがたいグラスランドとの連携は、体力以上に精神力を消耗するものだった。
当然のことだが、戦闘訓練の後は汗と埃に塗れることとなる。そんなわけで、訓練後はゴロウの焚いた風呂にゆったりと入り、身体の汚れと心の緊張とを同時 に洗い落としてしまいたかったのだが、今日は集団訓練があったおかげでかなり混雑していて、さっと湯を浴びて埃を落とすのが精一杯だった。おかげで全身に 疲労が残っていて、起き上がるのさえ面倒な状態になっている。
サロメが気遣ってくれたおかげで、明日はなんとか休みということになったが…明日も、今日や昨日や一昨日と同じように仕事がみっちりだったら、流石のクリスも倒れていたかもしれない。
「………あー………」
剣を握っているときとは別人のような気だるさで、クリスはぼんやりと天井を見上げた。身体が疲れきっているのだから、今すぐにでも眠れそうな気もするの だが、かえって妙に目が冴えているようだった。酒場まで行ってきつい酒でも呷れば容易に眠れるのかもしれないが、わざわざ酒場まで移動するのも億劫であ る。
「うー…」
どうしたものか、と再びクリスが気の抜けた声を上げたとき、こつこつと小さく扉が叩かれた。今夜誰かが訪れる予定は、無い。だが、いくら疲れているとはいっても、予定が無いというだけで追い返すわけにもいかない。
(緊急の用事かもしれないし)
もっともな理由で自分をごまかしながら、嫌々立ち上がり渋々扉に向かう。そこには、予想外の人物がふたり、立っていた。
「よぅクリス、邪魔するぜ」
「……………」
陽気そうなカラヤの男と、寡黙なハルモニアの傭兵…ジンバとゲドが、そこに居た。
どちらもクリスの知り合いといえば知り合いだが、こんな夜更けに訪ねられるほど親しいわけではない。同じ『継承者』として炎の英雄の眠る地で会い、その 後も父の親友として何かと話すことの多いゲドはさておき、ジンバなどクリスにとって一度刃を交えた間柄でしかない。グラスランド諸部族とゼクセンが近づき つつある現在でも、あまり距離が近づいたとは言えない関係だった。
…のだが。
「…どうしたんですか、お二人とも」
「なぁに細かいことは気にするなって。アンタお疲れだろ?」
「………」
能天気なジンバの声に、クリスは僅かに眉をしかめた。物凄く自分の感情に正直な行動をしても良いならば、「疲れていると知っているのなら、そっとしてお いてくれ」と胸座掴んで小一時間ほど説教をしたいところなのだが、相手は年上である。騎士団の部下たちならば自分より年長であろうと、とりあえず鎧を着用 したまま5kmランニングさせた後腹筋背筋腕立て伏せ50回を5セットほどやらせたいところをぐっと堪えて、クリスはにこりと爽やかな微笑を口許に湛え た。
「流石だなジンバ、よく解ってる」
「いやぁそれほどでも」
クリスの微笑と言葉を本気で受け取ったらしく、顔に似合わない、少年のような照れ笑いをジンバは浮かべた。どことなく無邪気にさえ見える笑みに、ほんの少し罪悪感が過ぎるが、構わず言を継ぐ。
「ということで、帰ってくれ。じゃあな」
言葉と同時に思い切りよく扉を閉める。完全にジンバの不意をついた行動だったが、生憎とジンバの反射神経のほうが勝った。咄嗟に差し込まれたジンバの足 と分厚い木の扉とがかなりの勢いでぶつかって、がつっという鈍い音が鳴る。肉というよりは骨まで響いてそうな音に、クリスは慌てて扉を開け放した。
どんな理由があって、どれほど自分が不機嫌であったとしても、不当に他人を傷つけてよい理由にはならない。ましてや今は、ゼクセンとグラスランドとは微妙な関係にあるのだ。
「す、すまない、大丈夫か?」
「いやもー完全にオッケー大丈夫」
だから酒を飲もう。
額から妙な汗を搾り出しながら、それでもそんな科白と共に酒瓶を差し出されて。
「…………コイツは諦めが異様に悪いから、言うとおりにしてやったほうが結果として精神的な負担は減るはずだ」
ついでに、今まで友人の悪行について何のフォローも入れなかったゲドが、心底嫌そうにそう告げるのを聞いて。
「………わかりました、どうぞお入り下さい」
クリスに断れるわけもなく、本日三度目の溜息と共にすっと身体をずらし、招かれざる客を室内に入れたのだった。
とぷん。
ジンバが酒と一緒に持ってきた三つのグラスに、淡い金色に染まった酒が、綺麗に注がれる。一緒に出された酒の肴は、これまたジンバが一緒に持ってきた鹿 の干し肉である。それをそのまま油紙に包んで持って来るという無粋さは、花も恥らう若き乙女と杯を酌み交わすというよりは、どちらかというと男同士が熱く 語らいながら酒を飲みあうような状況にこそ相応しいものなのだが、騎士団という男社会で育ってきたクリスは気づいていない。そして、ジンバには気遣いとい うものを期待するほうがそもそもの間違いである事をゲドは知っていた。
用意周到な自分の性格を内心恨めしく思ったかどうか、クリスには定かではないが、漆黒の隻眼に僅かな諦めの色を刷いて、ゲドは懐から小ぶりの皿とナイフ と爪楊枝を取り出した。テーブルの上に鎮座していた鹿肉を、ナイフで丁寧に食べやすい大きさに削り、爪楊枝を突き刺す。
これで、準備完了である。
「とりあえず、お疲れさん」
「ああ。貴方がたも…お疲れ様でした」
「………」
真っ先に手を伸ばしたジンバにつられるようにして、クリスもグラスを手に取った。軽く掲げた後、おずおずと口をつける。
「……あれ…?」
予想とは違うまろやかな味に、クリスはつと首をかしげた。
カラヤの民は総じて酒豪が多いから、ジンバが持ってきたものも相当きつい酒だろうと予測していたのだが、口当たりは意外と滑らかだったのだ。喉を灼くようなひりつきはまるで感じず、むしろ、とろりと滑り落ちるような感覚さえする。
いや、それよりも。
(……わたしは、知っている…?)
これが初めて飲む酒ということは間違いない。ゼクセンの酒には無い、不思議な風味と甘みのあるこれほどの美酒ならば、必ず記憶のどこかに残っているはずだ。
だが、グラスからふぅわりと微かに漂う、爽やかな花の香りは妙に懐かしいものがあった。
ぼんやりとグラスを見詰めながら記憶を探るクリスの姿に、ジンバがからかうような笑みを向ける。
「何考えてるかは知らんが、せっかくの美味い酒なんだ。仕事の事は、今は忘れとけ。きっちり切り替えておかないと、小皺がどんどん増えてくぜ?」
「なっ…うるさいっ、余計なお世話だっ」
顔を真っ赤にして子供のように言い返したクリスは、怒鳴った勢いでぐっと酒を飲み干すと、空になったグラスを自慢げに突き出した。どうだと言わんばかりの誇らしげな笑みに、ジンバの表情が僅かに緩む。
「いい飲みっぷりだ。面倒なコトは飲んで忘れるに限るッ! ほれゲド、お前ももっと飲めよ」
「………絡むな。五月蝿い」
「あ、お前、今ちょっとヤなカンジ。お前ずっと黙って飲んでたら、お嬢さんが怖がるだろ」
「………その分お前が喋っているから問題ない」
テンポがかみ合っているのかあってないのか。
微妙にずれた会話を交わしながら、ゲドは不意に酒瓶を手に取った。きょとんと目を丸くしているクリスの前で、空になったままのクリスのグラスに酒を注ぐ。透明なグラスの中で、淡い金色の液体がゆらゆらと揺れた。
途端に立ち上る香気は、やっぱりどこか懐かしい。
不思議そうに見詰めるクリスの前で、表情を読み取らせない隻眼を僅かに伏せて、ゲドはぽつりと呟いた。
「……これは、アイツがよく飲んでいたものだ」
「……!」
名前こそは出されなかったものの、それが誰を指しているのか思い至り、クリスは大きく目を見開いた。戦慄く唇から、呆然と言葉が滑り落ちる。
「…父様、が…?」
「ああ。物事のひと段落がついたとき、よく飲んでいた。こんな…休日の前の晩にな」
淡々と紡がれたその言葉に、曖昧に漂っていた記憶が刺激され急速に色づいてゆく。脳裏を過ぎるのは、遥か昔の想い出。
寒い寒い冬の日。温かく爆ぜる暖炉の、柔らかい橙色の光が部屋を照らしている。
部屋の入り口からは、暖炉を向いている彼の、大きくて広い背中しか見えなくて。
明日はお仕事はお休みだから。せっかくだから今夜は一緒に寝ようって言いたくて。同じベッドにもぐりこんで、明日の予定を考えたり、仕事で忙しかった間の出来事を話したり、眠りにつくまで本を読んでもらったり、そんな子供らしいささやかな我儘を。
おずおずと呼びかけた声に、答えてくれたヒトの、振り向いた時の笑顔はもう思い出せないけれども。
暖炉脇に置かれたテーブルの上。グラスの中で揺れていたのは…確かに同じ、うつくしい金色ではなかったか…?
ああ、と声にならない吐息が零れ落ちる。
(どうして、忘れていたんだろう…)
何も憶えて無いなんて嘘だった。大事なものはちゃんと自分の中に残っていた。ただその時は当たり前すぎて、思い出せなくなっていただけで。
「ありがとうございます…」
薄く滲んだ瞳を精一杯笑みの形に和らげて、クリスは微笑した。
今まで何度も何度も何度も、それこそジンバやゲドの姿を見かけるたびに、本当はワイアットの事を訊ねたかった。何故自分と母を棄てたのか。何故生きていることを知らせてくれないのか。何故自分の前に姿を現してくれないのか。何故、何故、何故…。
父の親友だという割には、ゲドもジンバも沈黙を守り続け、何も語ってはくれなかった。ただ一度、ゲドが『アイツはお前達のことを何よりも愛していた』… そう告げてくれただけだ。二人の瞳にはクリスを見守るような温かさがあったからその言葉を疑うこともできず、何も聞いてはいけないのだとすべての疑問を そっと胸の奥に沈め、過ごしてきた。
けれども。
(本当に大事なのは…わたしが『忘れてしまっている』ことだったんだ)
忘却の彼方に置き去られている、些細な出来事。それらこそが、宝石のように煌めく大事な想い出だったことに、今まで気づかなかった。
「…何時だってなんだって、大事なものはなくしてから気づくモノなんだよな」
「ジンバ…?」
照れているらしくむっつりと黙り込んだゲドの隣で、ちびちびと酒を飲んでいたジンバが遠くを見るような眼差しでひっそりと言った。誰に言い聞かせるでも ない言葉は、だからこそ彼の本当の心を表しているようで重々しい響きに満ちている。彼とは数えるほどしか言葉を交わしていないのではっきりとは言えない が、遥か遠くに向けられた瞳には過去を懐かしむ色よりも、数え切れない痛みと後悔とに彩られているように見えた。
彼もまた、クリスからは想像も出来ないような想いをして、今ここに居るのだろう。幾つもの眠れぬ夜を越えて、今。
「だから、気になるなら下手な遠慮なんてナシで、俺たちに聞いたほうがいいと思うぞ? 何時までも俺らが傍にいてやれるわけじゃないからな。ま、もっとも答えられる範囲でしか答えられんが」
「うん…」
飄々とした物言いはどこまでも軽く見えて、だからこそクリスの胸に痛ましい想いがふと過ぎる。
イクセの村で剣を交わした、陽気なカラヤの男。人懐こく、クリスには度を越して馴れ馴れしいわりには、本当に踏み込んで欲しくないところには決して踏み入れようとはしない。人との距離のとり方が上手く、見た目以上に『大人』なのだろうとぼんやり思わせる。
そんな彼が。どれほどの想いを重ねて今、こうしてクリスに告げてくれているのか。それを思うと自然と、今まで漫然と苦手意識を持っていたこの男に対する尊敬の念が沸き起こり…
…かけた瞬間。
「だからお嬢さん、今のうちに大事な思い出を作りに行こう!」
「……………なに?」
唐突な科白に、危うくグラスが手から滑り落ちるところだった。慌てて手のひらに力をこめてグラスを握りなおす。何を言い出すか、とジンバを軽く睨んだ が、嬉々とした表情はちらとも崩れず、まるで応えた様子を見せない。落ち着いた大人らしい翳りを帯びた表情はすっかり消えうせ、むしろ自分の提案に満足し きっているかのような輝く笑顔が、余計に癪に障る。先ほど憶えた尊敬の念など、木っ端微塵になって跡形も無い。ふつふつと湧き上がってくるのは、場の雰囲 気など全く解さない鈍感さに対する呆れと興味…それから、決して口に出すことはないけれども、ほんの少しの感謝の気持ち。
「明日は休みなんだろ、俺がいい場所知ってるから案内してやるぜ。よし、決まりな」
「決まってないッ! わたしは一言も『行く』とは言ってないぞッ!」
「なんだよー、つれないなぁ、オジサンは悲しいぞ」
「勝手に悲しんでおけッ!」
「よぉ~し、わかった! 出血大サービス、ゲドも一緒に連れてってやる。これでいいだろ、な?」
「……………俺を勝手に巻き込むな」
「あ、す、すみませんゲド殿」
「構わんだろゲド」
「お前が勝手に言うコトじゃないだろう!?」
「…………構わない」
「よし、これで本決まりだな。明日はお弁当持ってピクニックかぁ懐かしいな」
クリスの非難も何のその、強引にゲドから了承を取り付けたジンバは、遠足を心待ちにしている少年のような夢見る表情を浅黒い顔に浮かべた。年齢不相応な無邪気さに、思わず苦笑が零れる。
(…ま、いいか)
確かに明日、休みになったとしても、実際クリスには何の予定もない。そもそもどちらかというと仕事中毒気味なクリスにとって『休日』というのは嬉しい反 面、どう消化するのか頭が痛い代物でもある。やることといえば昼まで寝る、後は日課となっている鍛錬ぐらいなもので、やりたいコトでかつ身体を休めるよう なコトというものは何一つとしてないのだ。
期せずして休日の予定を埋めることができたのだが、それを正直に告げるのも少し悔しい。何よりもジンバが調子に乗って余計なことをしでかしそうな気もする。考え込んだクリスは、ややあってぴ、と人差し指を立てた。
「その代わり、ジンバとゲド殿、おふたりにして欲しいことがあるのですが、いいですか?」
「いいぜ、きけるなら何でも聞いてやるよ」
「…………」
あくまで限定条件を外さないジンバと無言のまま先を促すゲドに、クリスはそっと瞳を伏せた。
甘えるつもりはない。頼り切るつもりもない。けれども、ほんの、少しだけ。
かつて父に向けたような、ささやかな我儘を赦してもらえるのならば。
「いつになるかはわからないけれども、また今度、わたしがゆっくりできる時間が貰えたら…また、こうやって一緒に飲んでもらえますか?」
少しずつでいいから父のことを教えてもらったり。
日ごろの愚痴を、ちょっぴり零してみたり。
今までの思い出やこれからの想いなど、本当ならば何よりも『父』と語り合いたかったことを。
返答をじっと待つクリスの先で、ジンバとゲドは申し合わせたかのように小さく笑むと、恭しくグラスを掲げた。
「もちろんよろこんで」
「………」
黒曜石の隻眼と、薄く蒼い双眸に浮かぶのは、譬えるのなら親戚の叔父のような、そんな穏かな愛情で。
嬉しそうに口許を綻ばせたクリスは、同じようにグラスを掲げると一息に酒を飲み干したのだった。
余談ではあるが翌日、肝心のクリスが二日酔いでダウンし、ピクニックどころではなくなってしまい、密かに涙しているジンバの姿がビュッデヒュッケ城で見られたという。
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