女神への祈り

 冷たい雨が降りしきる音が、さらさらと耳元を掠めていく。走り続けているせいか、雨に打たれているにも関わらず、むしろ暑いとさえ感じられる。任 務を終えたばかりで、身体は休息を求めているはずだが、とても暢気に歩いていられるような心境ではなかった。馬を飛ばし、街についた途端、彼はひたすらに 家を目指して走り続けていた。
 前々から休みを取りたいとしつこくしつこく…それこそ聞いている周囲のほうがうんざりするぐらい念を押していたにも関わらず、結局、肝心なこの日、仕事 を休むことはできなかった。愛する妻にとってはこれが初産で…体の弱さを考えると、これがきっと最後のお産にもなるだろう。自分に何ができるかはわからな いが、それでもきっと不安を抱えているに違いない妻を傍らでいたわり、励ましたかった。
 だというのに。
 ぎり、と唇を噛み締める。
 何が悪いのか。気丈な妻に後押しされるように、休日を返上してしまった自分が悪いのか。狙い済ましたかのように現れた盗賊団が悪いのか。慌てふためいて出動を命令した評議会が。
 今更何を愚痴ったところで仕方がないのだとは解っているけれども。
 ビネ・デル・ゼクセ中心より僅かに外れたところにある、一軒の古い家の前までたどり着くと、彼は気が急くまま、体当たり同然に門扉を押し開いた。がしゃん、と耳障りな音にも注意を払わず、重厚な屋敷の扉を力いっぱい開ける。
「………………ッッ!」
 屋敷の中は、降りしきる雨の帳のせいか、薄暗く静かだった。ひやりと入り込んだ空気が、嫌な想像を掻き立てる。余計な想像を振り払おうと、彼がきゅっと固く眼を瞑ったとき。
「…おや、旦那様、お帰りなさいまし」
 奥の部屋から現れた初老の男が、彼の姿を認めて恭しく頭を下げた。はっと見開いた彼が、慌てて詰め寄る。
「悪い、今帰った、あの、」
「奥様でしたらあちらの部屋に。奥様、お子様共に無事でございますよ。ですが…」
 彼の何よりの懸念に的確に答えた屋敷の執事だったが、一度言葉を切ると男の全身に目を走らせた。皺の深い目じりに、慈愛の笑みが浮かぶ。
「ですが、そのまま奥様に会われますと、心配されますでしょうから…まずは、一度お召し物をお代え下さいませ」
「そんなにひどい格好か…?」
 執事に言われて身体を見下ろした彼は、そこで初めて自分の格好に気づいて、僅かに苦笑する。足元の周りには、ぽとぽとと滴り落ちた雨の名残が水溜りを作っている。確かにこのまま妻に会おうものなら、余計な心配を掛けかねない。
「じゃあ、悪いが、温かいミルクでも部屋に持ってきてもらえるか?」
「かしこまりました。では、また後ほど奥様のお部屋まで御案内いたします」
 執事の気遣いのおかげで、彼からは余分な緊張が抜け落ちたようだった。いつものような闊達さが身体に満ちてくるのがわかる。
「すまんな」
「いえ、奥様と旦那様…そして、お生まれになったお子様にお仕え出来るのは、私にとっても誇らしく喜ばしいことなのですから」
「…ありがとう」
 くすり、とどちらともなく笑みが零れ落ちた。


 案内された部屋に足を一歩踏み入れた途端、部屋の空気がまったく違うのが解った。甘く優しい香りが、いつの間にやらふわふわ漂っている。自分が家を出て、戻ってくる間にまったく別の空間になっているようだった。
 温かさ。優しさ。柔らかさ。そして愛しさ。
 そういった全てがこの部屋に満ちている。
「……悪い、今帰った。遅くなってすまなかった」
「お仕事だもの、仕方がないわ」
 開口一番謝罪した彼に、妻はふわりと笑んだ。優しい声音にほっとする。
 ベッドの上に身を起こしている彼女の顔は、出産によるものなのだろう、普段よりも血の気に乏しく、蒼白の一歩手前のようにも見える。だが、母になった喜びが何よりも彼女の表情を輝かせていた。そのきらめきを彼は眩しそうに眼を細め、見詰める。
「ちょうどさっき、産婆さんが帰ったところなのよ」
「そうか…」
 どこか落ち着かない様子の彼を、おかしそうに見詰めていた彼女は、ふと傍らに置かれている小さなベッドに細い手を伸ばした。小さな布に包まれて眠っている赤子をそっと愛しそうに持ち上げると、慎重に彼の手へと渡す。
「さ、お父様に御挨拶ですよ…」
「…あ、ああ…」
 どうしてよいのやら分からないまま受け取った彼は、戸惑い気味に腕の中の赤子に視線を落とした。
 人形のように小さな身体。けれど、生きている証に、布を通して仄かな温もりが伝わってくる。
「女の子よ。名前は…クリス、というのはどうかしら…?」
「クリス…」
 ぽつりと呟かれた名前に答えたのではないだろうが、不意にぽかりと赤子の瞳が開かれた。穢れのない瞳は、妻と同じ…朝焼けのような、うつくしい紫。
「……」
 泣きもせず、無心に彼を見詰め続ける赤子の澄んだ瞳から目を逸らし、彼はぷっくりとした指に静かに触れた。何か玩具と間違えてでもいるのか、赤子は彼の 指をきゅっと掴んで離そうとしない。小さな小さな、ほんの少し力をこめるだけで壊れてしまいそうな小ささなのに、桜貝の欠片のような爪が光る赤子の指は意 外と力強かった。
 この手できっと、これからいろんな物を掴んでゆくのだろう。楽しさも辛さも涙も喜びも何もかも、この小さなてのひらで触れ。
 そうして、大きくなってゆくのだ。
「………っ」
「どうしたの、ワイアット…?」
 頬に熱いものが伝わり落ち、彼は不意に俯いた。妻の訝しむ声にも答えられず、ただ顔を伏せ、生まれたばかりの娘を大切に抱きしめる。
 この感動を、何といえばいいのだろう。確かに妻と、自分との血を分けて生まれ出た娘。小さな小さな生命。長い長い生の中、奪うことしかできなかった自分に与えられた、この幸せ。何よりも護りたいもの。
 今までゼクセンで暮らしながら、女神の恩恵など信じてはいなかった。ただ精霊の導きと己の欲するがままに、勝手気ままに生きて…彼女に恋し、求め、今に至っている。
 けれども、今、初めて。
「…………この日、この場所を、俺たちに与えたもうた女神に………感謝を…」
 心よりの、感謝を。
 何よりも深く、刻み込んだ。

 

 

 

 それより二十数年の月日が流れる。

 彼は名を変え、生きる場所を変えた。
 妻は病に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
 娘は大きく成長し、かつての父のように騎士となった。

 戦場で相見えることがあっても、彼は娘に名乗らず、娘は彼に気づかなかった。
 それでも彼にとっては十分だった。
 美しく誇らしく、花咲くように成長した娘。誰に似たものか、生真面目すぎる一面があるものの、誰からも慕われている姿が誇らしかった。大声で誰彼構わず喧伝したいほどに、心が躍ることだった。
 だから尚更、その姿に陰を落としたくなかった。何も言わずに、ただひとり遺跡へと向かったのだ。

 そう、決めたはずなのに。

(それでも俺は)
 叶うならば。長い人生できっと、一番大きく、一番罪深い願い。
 『破壊者』の刃に倒れ、踏みにじられながらも願うのは。
(最期に、もう一度)

 

 

 

 

 そして。

 

 


 僅かに滲んだ空は淡く曇り、今にも雪が降りそうだった。いかにも聖域らしい、冴え冴えとした空気が満ちている。もっとも、ここがひんやりしているのは、実際に氷柱があちこちに残っているからだ。
 真なる水の紋章が封印されていた地なれば。
「…………ジンバ…ッ」
 痛みを堪えるようなルシアの声に、ふと視線が動いた。その隣に、赦されないと解っていながらも、願わずにはいられなかった娘の姿が見えた。状況を掴めて いないのか、あるいは掴みたくないのか、呆然と立ち尽くすその姿には、いつもの女神とも讃えられる凛々しさと覇気とが共に抜け落ちている。
 ああ、と声にならない吐息が零れ落ちる。衝撃を受けた娘の痛みを心配しながら、それでも抑えきれない喜びと、女神ロアへの深い感謝がひたひたと押寄せる。

 願いは、叶ったのだ。

 ふらり、と糸に引かれる様に頼りない足取りで、娘が一歩近づく。もう一歩。誰も声を発することができない緊迫した空気の中で、かしゃりかしゃりと鎧の擦れる音がやけに大きく響く。
「………っ」
 何と呼べばいいのか迷っているのだろう、唇をきつく噛み締めて、娘は彼を覗き込んだ。今にも泣き出しそうな空を背にして、銀の髪に縁取られた紫の瞳がひどく潤んでいるのがわかる。
 かつて覗き込んだのと同じ紫の瞳が、至近距離でけぶるような光を放っている。幾つもの辛い現実を見てきただろうに、その輝きは生まれ出でてきたときと同じ無垢なもののように思えた。
「……俺は、いい父親ではなかったな…」
 搾り出すように零した言葉には、肯定の頷きも否定の叱責も返ってこなかった。初めて逢ったときと同じように、無言のまま、ただただ彼を見詰め続けている。
 いい、父親ではなかった。どんな理由があろうと、結果として妻と娘を『棄てた』のだ。けれども。
 多分、この世でもっとも、幸せな父親だろう。
 最期の願いすらも叶えられ、こうして娘に看取られ逝くのだから。
 これから娘には辛い道を歩ませてしまうのかもしれない。けれど、どうか、娘に精霊の導きがあらんことを。女神の加護があらんことを。
 そして。
「…………この日、この場所を…与えたもうた……女神に…………」
 限りない、感謝を。

 そうして、満ち足りた笑みを浮かべ、静かに双眸を閉ざした彼は……魂の糸を、そっと手放したのだった。

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