<ロア>はこの世のものとは思えないほど美しい女神なのだと聞いた。光り輝く髪を長く伸ばし、七色に彩を変える瞳にはいつも慈愛の笑みを湛えているのだそうだ。
『けれども、罪人には苦しいでしょうね』
それこそ女神にも劣らない柔らかい笑みを浮かべて、彼女はふわりふわりと甘い声音で言葉を紡ぐ。
『とても優しくて純粋で、真っ直ぐな眼差しだからこそ…心に闇を抱える人間は、見つめ返すことはできないでしょうね』
人は誰しも、自分の心は偽れない。何時だって、自分の望みは自分が一番良く知っている。どれほど表面を取り繕ったところで、隠し持った想いは隠しているからこそ綻ぶのだ。
だから。
『……だから、貴方は、貴方の思うがままに生きて。わたしはそんな貴方を愛したのだから』
そうして、彼女と愛らしい娘とを『棄てた』。
彼女の願いの通り、何者にも囚われず自由に流されるように生きた。長い長い間彷徨し、幾つかの偶然と必然に導かれるようにしてこの地に戻ってきた。
けれど、と今になって想い返す。
本当に自由だったか。本当に己の心を偽ることなく生きてこれたのか。
そして。
本当に…彼女は自分が離れることを赦してくれていたのか…?
答えは出ることは無い。だからこそその疑問は、繰り返し彼の心を苛んだ。
*
ざああざああ、と大粒の雨が地面を叩く音が、耳鳴りのようにやまない。薄絹を幾重にも重ねたようにすら見える雨の幕に、世界全てが閉じ込められているような気さえしてくるほどである。
もとより、住人たちの気質のせいか、緩んだ空気のビュッデヒュッケ城であったが、雨のおかげで輪をかけて怠惰な空気が流れていた。
何しろ、雨が降っている。それも、今日で三日目だ。
外に出ることも出来ず、かといって城の中で何をするというわけでもないものが多く、そのほとんどが酒場かレストランで暇を潰している有様だ。あるいは賭博に興じているか。どちらにしてもだらだらとした時間を過ごしていることは間違いない。
もちろん、それには少数の例外が存在していて、ゼクセンの軍師や少年軍師、その教師役の女性など頭脳担当の者たちは寸暇を惜しんで議論をしているはずである。
「やれやれ…」
言葉ほど残念さを感じさせない声音で、ジンバは小さく呟いた。城の敷地の中に植えられた木の下は、葉に遮られて多少は雨が防げるものの、雨宿りに適しているとは言えない。だが、ジンバは木の幹に背をもたれさせて、灰色の世界をぼんやりと見ていた。
「まったく…」
口許に、自嘲の笑みが浮かぶ。
早くここを出てゆかねば、と思う。水の紋章の封印が解かれた今、紋章の破壊を願う者たちよりも先んじて、真なる水の紋章をこの手にしなければならない。それが解っていてなお去りがたい自分の未練さが、ひどく可笑しかった。
もう一日。あと一日だけ。
そうやってここまでずるずると延ばしてきた。だから、この雨も他の者にとっては憂鬱の種であっても、ジンバにとっては正直言って、恵みの雨でしかない。 自分自身の心をごまかして、出発を延期する、良い口実となってくれている。あるいは自分の未練に応じて、真の紋章が雨を降らせてくれているのかもしれない と思う。
葉の隙間から零れ落ちた滴が、ジンバの短い髪や色鮮やかな民族衣装を少しずつ濡らしていく。普通なら風邪を引くことを恐れて城の中に移るものなのだが、ジンバは気にすることなく、雨にけぶる古城の様子をただ見つめていた。
雨は。…水は、決して彼を害することはない。ただ優しく包んでくれる。
「……?」
不意に。
ぱしゃんばしゃんと水を撥ねさせる、ゆったりとした足音が聞こえて、ジンバはいつの間にか落ちていた瞼をそっと押し上げた。何気なく足音を追ったジンバの眼が、大きく見開かれる。
それは、傘も差さずに歩いている若い女性だった。生真面目な性格を現すようにきっちりと髪が結い上げられている。向こうも、こちらがよほど意外だったのだろう。全身から水を滴らせながら、紫の瞳を瞠って呆然と立ちすくんでいる。
「…あー…」
訪れた沈黙がいたたまれなくて、ジンバが軽く右手をあげる。どのような態度を取ればいいか。どのような言葉をかければいいか。瞬時に偽るべき自分の姿を迷いながら、それでもジンバは相手を呼び止めた。
「傘も持たずに何処へ行く気なんだ、お嬢さん」
「貴方は……・確か、ジンバ、だったな」
ゆるゆると確かめるような呟きに、ジンバはにっと笑ってみせる。つられたのか、相手…クリスも、ぎこちない微笑を浮かべた。
「ふうん、散歩の途中だったのか。引き止めて悪かったかな?」
「いや…別に、構わない」
「けど傘ぐらいはさしたほうがいいぞ。風邪引きそうじゃないか」
心配そうなジンバの声に、クリスは僅かに微笑んでみせた。
「ありがとう。けど、こうして傘をささないで、雨に濡れるのは好きなんだ。天からの恵みを直に感じ取ることができるような気がするから」
ジンバが立っていた樹の下に、二人は居た。散歩の途中だったクリスを、ジンバがいささか強引に引き止めたのである。何事にも不器用なクリスは、推測できる通り口下手で、丸め込むのに苦労はしなかった。
きっと今までそれで苦労しているに違いないと思うと、自然に笑いがこみ上げてくる。記憶にうっすら残る幼い頃よりも、ずっと身長も伸びて立派な一人前の女性となっているのに、子供の頃から変わらない素直さがひどく懐かしい。
「…面白い趣味だなぁアンタ」
「悪いか」
「いやぁ、悪くはないさ。身体には悪そうだけどな」
「…そうか」
僅かにむっとした声音で言ったクリスに、ジンバはすかさず混ぜ返すように澄まして答える。僅かに苦笑したクリスは、すっと視線をジンバから外し、まっすぐに前を向いた。僅かに翳りを帯びた眼差しはひどく大人びていて、離れていた時間の長さを思い知らされた。
父が姿を消し、母を喪い、彼女はどのような想いで生きてきたのだろう。何を見て育ったのだろう。それを思うと、言い表せないやるせなさが、ジンバの胸に満ちる。
だから、かもしれない。
ふと、自分でも思いがけない言葉が、ぽつりと零れ落ちた。
「……父親に…もし、ワイアットに会えたら何を言いたい?」
卑怯な問いかけは百も承知だ。他人のふりをして『ワイアット』への思いを聞き出そうなど、罵られても仕方がない行為だ。
それでも、知りたかった。今更己の正体を明かし、赦しを請うことなどできないから、せめて赤の他人として、聞いてみたかった。
「…父に、逢えたら…」
クリスの身長は女性にしたらかなり高い部類に入るが、ジンバは更に高い。そのため、ジンバを見上げるクリスの瞳が、感情を受けて僅かに揺らいでいるの が、ジンバからははっきりと見える。蒼い双眸を微かに眇めて、ジンバはクリスの震える唇が言葉を紡ぎだすのをじっと待つ。
やがて。
「……本当は、いろんなことを聞きたかったんだ。どうしてわたしと母様を置いていったのか、とか。どうして死んだように見せかけていたのか、とか。けれど…ききたいことが、ひとつだけ、ある」
ぽつり。ぽつり。
躊躇いがちに紡がれる言葉は、温かい春の雨のように優しい。突き刺し抉る真冬の氷のような鋭さは、欠片も見当たらない。
彼女は、被害者なのだ。長い長い生の中で、優しい時間を夢見てしまった自分により、人生を狂わされた被害者なのだ。声高に糾弾したっておかしくはない。むしろ、その方が自然だろう。
けれども、クリスの言葉はどこまでも優しくて。
「わたしと…母を、愛していたのか。それだけ、確かめることが出来ればいい」
だからこそ、その言葉は何よりも鋭く、ジンバの胸を抉った。
憎まれていたのなら。詰られたのであれば、今更後悔など浮かばなかったに違いない。仕方が無かったのだと、己の胸のうちで正当化することができただろう。
彼女自身は気づいていない。その女神の如き慈愛こそが、咎人を断罪する刃となることを。
クリスがゼクセンの騎士や民衆たちに、女神ロアにも譬えられていることを知っていた。その剣技と容姿から言われているのだと、ずっと思っていた。
けれど、それだけではない。
美しく、強く、優しく…残酷な、女神そのままに。
「…どう…?」
「…愛しているさ…」
衝動を抑えることはできなかった。不思議そうな瞳で見上げているクリスの髪を、ジンバはそっと撫でた。銀の髪に触れる己の手が、僅かに震えているのが視界に映る。
この髪に触れたのは、どれほど昔のことだろう。まだ彼女が幼い少女だった頃。今のような凍てついた瞳ではなく、くるくると表情が移り変わる子供らしい無邪気さを瞳に湛えていた頃。
きっと彼女自身は覚えてもいないだろう、それほどの年月が過ぎ去ってしまっていた。
触れるは罪。
想いを紡ぐも罪。
…それでも。
「アンタが憶えて無くても、俺は知っている…どれほどアンナに惚れ込んでいたか。どれほど娘の成長を喜んでいたか。何よりも…愛してもいない女の傍で笑っていられるほど、器用な奴じゃないさ」
誰もを不幸にする選択と解っていながら、その道しか選べなかった。そしてそれは、今も変わっていない。
本当に『他人』になりきるのであれば、『愛していた』と過去形で言わねばならないはずだ。けれど、解っていても、自分の想いを棄てきれない不器用さが今はもどかしい。
気づいて欲しい。気づかないでいてくれ。
相反する想いを抱えながら、他人のフリをして本人の心底の願いを伝える。
「幸せになるんだ。どんなに辛くても、アンタはひとりじゃない。大勢の人間が周りに居るはずだ。アンタが英雄であろうとなかろうと、関係ない。ただ…」
それ以上言うな、との理性の警告を無視して、ジンバはじっと目の前の娘をみつめる。気づかれてはいけない。今の自分は『ワイアット』ではなく『ジンバ』なのだから。彼女の不審を招くような言動は慎むべきなのだ。
ああ、けれども。
万感の想いをこめて、告げる。
「…ただ…生きて、幸せになるんだ。…………クリス」
面と向かっては数年ぶりに呼んだ名は、ジンバの予想を超えて遥かに甘く響いた。響いてしまった。犯してしまった己の失態に、クリスよりも一瞬早く、ジンバの表情が変わる。
『ワイアット』を棄て『ジンバ』となってから、踏み越えてはならない一線を、越えてしまったのだ。聡い娘だから、致命的だ。取り繕うように慌てて言葉を添え、背を向ける。
「呼び止めて悪かった。じゃあな」
震えるジンバの声音に何か気づいたのだろう、ジンバの視界の端を大きく見開かれた紫の瞳がすいと過ぎる。呼び止めようとするクリスの気配を背中に感じたまま、ジンバは雨の中大きく足を踏み出した。雨に濡れた草がぱしゃりと小さく音を立てる。
振り返ることはできなかった。全てを振り切るように、ジンバは身体が濡れそぼるのも厭わず、真っ直ぐに駆け出す。
呆然と立ち尽くすクリスの姿が雨の帳に包まれシルエットすらも見えない距離になってから、ジンバはようやく歩調を緩めた。
「……は、ははっ、はははっ…」
苦しい息の下から湧き上がるのは、留まるところを知らない笑い声だ。
泥の中でもがき、それでも穢れない娘の姿に女神の瞳を重ね。
その眼差しに貫かれ、断罪され…そして、赦された。
真実はわからない。それでも、そう感じ取れた。それだけで十分だ。
「…ずっとかわらず、愛しているよ、クリス…」
クリス。誰よりも愛しい娘よ。
降りしきる雨の中、空を見上げたジンバの頬を伝ったのが。
天から注ぐ雨滴なのか、あるいはその眦から零れ落ちた涙だったのか。
それは誰も知らない。
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