炎恋

 まるで、水の中にいるようだった。全ての光とあらゆる影と世界中の音が揺らめいて途切れ途切れに伝わってくるような。
 自分の周りを取り巻いているのは水ではないもののようで、意識が赫く塗りつぶされているけれども。

 そんな、世界。

『……ッ!』

 目を覚ませ、と呼ぶ声に、彼は静かにかぶりを振る。
 瞳を開いて現実を見たくなど、無かった。彼女を自分のせいで失った真実など、必要なかった。
 子供だから。未熟だから。弱いから。
 どれほどの言い訳を積み上げても、目の前で彼女の胸と背中から噴出した鮮血のぬくもりと、受け止めた彼女の重みと鎧の冷たさだけが、ただただ甦る。
 憶えていたくない事実だけが、色鮮やかに繰り返される。

『このまま、お前は全部壊すつもりか…!? お前やクリスさんが護りたかったモノを、お前が全部壊しちまうのか!?』

 クリス。ただひとり、自分の感情と理性と生命を握る人。全ての愛しさも、憎しみも、ただ彼女だけに向かっているのだと、今更ながらに気づいた。思い知らされた。
 だから、『護りたかったモノ』に、意味なんて無いのだ。彼女がそこに居なければ、何の意味も持たない。
 …何も、いらない。

 それなのに、声は呼び続ける。

『それで、お前は満足なのか!? クリスさんがそんなお前を見て、喜ぶとでも思ってるのか!? クリスさんが何を望んでいたか思い出せ!!』

 言葉のひとつひとつがヒューゴの胸を射抜く。
 考えたくなかったこと、無意識に目を瞑っていたことを、ことさら暴き立てるように。
 そうして。

『それに…クリスさんはまだ生きている、お前はクリスさんを殺しちまうつもりなのか!?」

 …生きている。
 その一言で、胸のうちの『何か』がするするとほどけていくのを感じた。
 喪わずにすんだ、その喜びだけが、静かに満たされてゆく。

 祈り。希望。感謝。そんな感情がふわりと弾けて……………ヒューゴの意識は現実へと戻ってきた。

「目が覚めたか」
 疲れたような声が響いて、ヒューゴは声のしたほうに眼差しを向けた。全身の力が抜け切っていて、妙に動かすのが億劫だ。
 そのときになってようやく、自分がベッドに寝かされているのに気づいた。
「……ここ、は…」
「ビュッデヒュッケ城の医務室だ。クリスさんなら隣のベッドにいるが、まだ寝てるからな、静かにしてろよ」
 赤毛の若い軍師が肩をすくめて言うのに、ヒューゴはほぅ、と小さく溜息をついた。『まだ生きている』という言葉…あれは、自分の願望が見せた都合のいい言葉ではなかったようだ。
「なかなかヒューゴがクリスさんを離そうとしないから、苦労したけどな」
「ご、ごめん…」
「謝ってすむもんじゃないけどな。いろいろと被害も出たし。後でトウタ先生に謝っておけよ」
「先生は…?」
「往診に出てるよ。ケガしたみんながみんな、ココに入りきるわけじゃないしな」
「そっか…」
 言葉こそはきついものの、シーザーの口調に責める響きはない。淡々と紡がれる言葉には、だからこそ重みがある。
 何よりもシーザー自身、ヒューゴの炎による被害をもっとも大きく受けている。だらりと身体の傍にたらされている右腕は、肘のあたりまで白い包帯で覆われているのだ。水の紋章による治癒とトウタの治療とで、問題はないとのことだが、暫くは包帯は手放せないだろう。
 きゅっと唇をかんで俯くヒューゴに、シーザーがいささか気の抜けた口調で付け足した。
「けど、まぁ…なんだ、お前、ホントにクリスさんのコトが好きなんだなぁ」
「………………ッッ!」
「はは、そう照れるなって。お前も大変だろうけどな、大事なモノはなくさないように、しっかり見張っておけよ。あとはそのための力をつけるこった」
 ははは、と軽い笑い声を上げているが、シーザーの瞳はどこまで真面目で。
 反発とか意地とか照れとか、そういったものを忘れ、ヒューゴは素直に頷いた。

 長い間、自分の内に巣食っていた憎悪の炎。それは永遠に変わることがないと思っていた。たとえひととき、共通の敵に対峙するため手を組んだとしても。
 …同じ強さで惹かれるだなんて、想像もしていなかったのに。
 今ではそれが、不自然なくヒューゴの中で融和している。

 憎む、気持ちと。
 愛しい、想いと。

「…うん、がんばる」
「はは、そっか。まぁ無理せずやれよ。あと、お前もまだ疲れがあるだろうから、今日はさっさと寝ろよ。じゃ、またな」
「シーザーも。………がんばれよ」
「おう」
 ひらりと手を振って、シーザーはあっさり医務室から姿を消した。ぱたんと軽い音を立てて扉が閉まる。耳が痛いほどの静寂が医務室に降り立つ。

 ふいに。
 そろり、と身を起こしたヒューゴはきしむ身体をゆっくりと動かして、静かに隣のベッドを覗き込んだ。隣でさんざん大声を立てていたにも関わらず、クリス は昏々と眠り続けている。柔らかく上下する喉が見えなければ、蝋人形と見間違えたかもしれない。それほど顔色は白い。

「…クリス、さん…」

 何度も何度も、夢に見るほどこの細い首をへし折り切り裂き抉ることを望んでいたというのに、今無防備な姿を目の当たりにして湧き上がるのは、不思議な安堵だけだ。

「ねぇ、クリスさん……オレ、さ…決めたから」

 カラヤの民は大地と風の精霊を友とする。変わりない恵みを与える大地、草原を渡り明日をつれてくる風。そこには偽りも駆け引きも存在していない。
 泣きたい時に泣いて、怒りたい時に怒って、笑いたい時に笑うその正直さは、カラヤの民の強さでもある。
 純粋に友の死を悼み、純粋に手をかけたものを憎んでいたヒューゴも、例外ではない。
 だから。

「明日から、覚悟してね」

 小さな笑みをひとつだけ零して、ヒューゴは再びベッドへと潜りこんだ。

 芽吹き始めた炎色の恋の蕾は。
 きっと、憎しみとは違う色の花を咲かせるのだろう。
 その鮮やかさは、まだ、誰も知らない。

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