炎恋

 全てを飲み込んで燃え盛るのは。

 それは、まるで炎のように。

 

 一瞬の油断が招いた事態だった。周囲は紋章破壊者のひとり、セラが呼び出した魔物で溢れかえっている。目の前の一匹を倒したからといって、気を抜くべきではなかった。
 けれども、長く続く戦いに神経が疲弊しきっていたのも、事実で。
「…くそっ!」
 真横から迫ってきた鋭い爪を、ヒューゴは咄嗟に避けようとした。今更迎え撃つには体勢が不十分すぎる。だが、避けるにも、体勢が不十分すぎた。
 倒した魔物が泡のように溶けた、その名残に足を取られる。目の前で、魔物の爪が大きく振りかぶられるのが見えた。時間が減速しているかのように、いやにはっきりと見える。
 そのとき。
「ヒューゴ!」
 鋭い声音が、戦場を貫いた。目の前に白銀の影が躍り出るのと、その胸から背中まで爪が貫通し、背中から鮮血が飛び散るのと、彼女の剣が魔物の首をはねる のと、ほぼ同時だった。凍りついたように彼女の背中を見つめ続けるヒューゴの前で、ざしゅり、と嫌な音を立てて爪が引き抜かれると、一層派手に血飛沫が上 がる。綺麗にまとめられた銀の髪を僅かに散らせて、彼女はゆっくりとヒューゴの腕の中に倒れこむ。その拍子に、ヒューゴの血の気の引いた顔に、小さな滴が 跳ねる。
 クリスを抱きとめた手が血に濡れる感触は、容易にかつての出来事を思い出させる。
 ルル。いつかカラヤの村で同じように血に濡れた友人の身体を抱きしめたことがある。同じ状況にヒューゴの背がぞくりと粟立った。
「…ヒューゴ…ケガは、無いか…?」
 ごふり、と血を吐き出しながら、紫の眸を弱々しく輝かせて、クリスが問いかける。刹那、弾かれたようにヒューゴの時間が動き始める。
「ヒューゴ、クリスさん…! ……なんてこった…」
 異常を察知し駆け寄ってきたシーザーが、クリスの怪我を見て絶望的なうめき声を上げた。
 胸から背中まで、貫通しているのだ。即死であってもおかしくはないほどの傷である。いくら真なる水の紋章を宿しているといっても、内臓を抉られて平気なほど、無節操な力をもつものではない。
「シーザー…」
「いいか、できるだけ衝撃を与えずに、後方まで戻らないと。今らならまだ、トウタ先生の治療と紋章術で治るかもしれない」
 厳しい表情で淡々と告げるシーザーに、強張った表情のままヒューゴが頷いた。
 クリスは、治らなければならない。こんなところで死ぬだなんて、赦さない。赦せるわけがない。
 けれども。
「…すまない、ヒューゴ、わたしは…」
 急速に生命力が削られていっているのだろう。いつも眩いほどに凛とした光を放つクリスの瞳は、今はヒューゴの隣にいるシーザーの姿すら意識に捉えられていないようだった。気配を探るように、焦点の合わない瞳がゆるゆるとヒューゴに向けられる。
 風に消えそうになる蝋燭の炎のような、弱々しい生命の光を瞬かせて、それでもクリスが懸命に言い募る。
「わたしは、ここで、朽ちるけれど……ヒューゴ、………グラス、ランド…………頼、む…………」
「クリスさん!?」
 悲鳴にも似た叫びが、零れ落ちる。だが、クリスは答えることなく、力なく双眸を閉ざした。青ざめた白い肌に銀の睫が長い影を落とす。

「あ…」

 最初は敵だった。殺すことだけを望んでいた。けれど、同じ城で生活するようになり、彼女の弱さも儚さも知った。脆さを抱え、戦場で剣を振るい続ける姿に、憧憬にも似た気持ちを抱くようになった。憧憬だけではない気持ちも、何時しか沸き起こっていた。

「あ、ああ、ああ…!」

 クリスの身体を力強く抱きしめ、俯くヒューゴから慟哭が溢れる。血が逆流するような想いが、堪えきれない。
 そして。

「ああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…!」

 空を引き裂く絶叫が迸った。ざっ、と何も無い空間に朱を曳いて炎が走る。
 ヒューゴの怒り。恐れ。嘆き。絶望。憎悪。混乱する感情そのままに、無秩序に生まれた炎が瞬く間に増殖し、生きているモノのようにうねり蠢く。
 熱風に弾き飛ばされて、シーザーの上半身が泳いだ。よろめいた足を踏ん張って周囲をちらりと見回す。空気と草原とを孕んで大蛇のように膨れ上がった炎 は、ヒューゴの迸る激情のままにあらゆるモノを飲み込みそうだった。炎を消すか、あるいは飛び越すでもしない限り、炎か煙に巻かれていずれ死に至るのは明 白だった。
 もはや戦どころではなくなった戦場では、戦っていた人々が懸命に消火しようとし、中でも水の紋章を持っているものたちは懸命に氷を生み、少しでも炎を消 そうとしているが…炎の源となっているのがヒューゴである以上、効果があるとは思えない。たとえ消すことができたとしても、ヒューゴの生命力を代償に新た な炎が生み出されるだけだ。
 破壊者のほうも、危険を見越したのだろう、魔物ごとあっさりと撤退していた。いけ好かない兄ではあるけれども、その状況判断の素早さに、今だけ少し感謝する。

「ヒューゴ!」

 シーザーが精一杯の声で呼んでも、ヒューゴからの応えはない。力の限りクリスを抱きしめ、虚ろな瞳で天を見上げているだけだ。
「くそっ…」
 無反応なヒューゴに、シーザーは乱暴に舌打ちした。

 <真なる火の紋章>の暴走。それはグラスランドの中に忌むべき記憶として今なお残っているのだ。同じ傷跡を、ヒューゴに刻ませる わけには行かない。伝説というものはとかく尾鰭がつくもので、シーザー自身としては半信半疑だったが、ここにきてヒューゴの撒き散らす炎を目の当たりにし ては伝説が真実だったのだと悟らざるを得なかった。
 このまま放置しておけば、間違いなく人も草原すらも、何もかもが焼け尽くしてしまう。後に残るのは、荒れ果てた大地だけ。人の営みもその歴史も、全てを灼いて。
「ヒューゴ、いい加減目を覚ませよッ…!」
 懸命に叫んだシーザーが、ヒューゴの身体を揺さぶろうとする。だが、防衛の本能か、あるいは他の何かか、シーザーを拒絶するようにヒューゴを取り巻く一 際炎が大きくなった。咄嗟に手を引いたから良いものの、そのまま揺さぶり続けていたら尋常でない火傷を負うことになっていただろう。
 それでも、諦めるわけにはいかない。
 何よりも、時間が無いのだ。放っておけば皆死んでしまうのだから。
 それに、ヒューゴは気づいていないようだったが、クリスの胸がまだ浅く…見落としそうなほど僅かだが、上下しているのにシーザーは気づいていた。炎の揺らめきによる錯覚でなければ、まだ間に合うかも、しれないのだ。

「このまま、お前は全部壊すつもりか…!? お前やクリスさんが護りたかったモノを、お前が全部壊しちまうのか!?」
「…ぁ………ク…リ、ス………」

 硝子玉のように虚ろだったヒューゴの双眸に、淡い光が宿る。瞳の中で不安定に揺らめく理性の光と同調するように、シーザーたちを取り巻いている炎が不自然に小さくなったり大きくなったりする。それはまるで、赫い大蛇が苦しみのたうちまわっているようだった。
 だが、まだ足りない。
 ヒューゴを護るように渦巻く炎の壁に、シーザーは強引に右手を突っ込んだ。服の袖が燃え、皮膚までもがちりちりと焼けてゆく感覚に、神経が悲鳴を上げて 意識が灼き切れそうになるのを必死に押さえ込む。とどめの言葉を叩き付けると同時に、シーザーは震える指先で、蹲り続けるヒューゴの額を小さく弾く。

「それで、お前は満足なのか!? クリスさんがそんなお前を見て、喜ぶとでも思ってるのか!? クリスさんが何を望んでいたか思い出せ!! それに…クリスさんはまだ生きている、お前はクリスさんを殺しちまうつもりなのか!?」
「…ぁあ、あああ、ああ、………ス…………」

 喉から血がしぶきそうなほどに。
 全霊を込めて、名を。
 呼ぶ。

「クリス…クリス、クリス…!!」

 どうっ、と。
 一際大きく炎が立ち上り…だがすぐに、大地から解き放たれ、空に溶けていった。
 まるで、全てが幻だったように、たった一瞬で炎は掻き消えたのだ。

「…ま、夢なんかじゃねーけどな」
 痛みすら麻痺しかかった右手に視線を下ろしたシーザーは、ふっと呟いた。ヒューゴは紋章を暴走させたせいで、体力気力ともに使い果たしてしまったのだろう、クリスを固く抱きしめたまま瞼を閉ざしていた。
 はぁっ、と短く息をついて、意識を切り替える。軍を纏めて、ビュッデヒュッケ城まで撤退して。今回の出陣は得るものが少ないというよりも、むしろヒュー ゴによる被害の方が大きかったのだが、破壊者側が撤退したのであれば、まぁ良しということで。それよりも先に負傷者の収容と、何よりもヒューゴとクリスの 治療を。
 何時だって、始めるよりも終わらせるほうが面倒なのだが、それも軍師の仕事のひとつだ。
「…つっても、これで貸しが1コ、できたからな」
 ヒューゴとクリスを筆頭に重傷者から順に慌しく、移動に耐えられるだけの治療を紋章で行われているのを横目に、シーザーは蒼い蒼い空を見上げた。
 炎が消えていった、空を。

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