その日のクリスは珍しく、書類の山を無事に片付けることができて、機嫌よく散歩していた。騎士というと戦うことだけが仕事のように思われがちだ が、団長ともなると全体の訓練スケジュールの調整やら、嘆願書、苦情、魔物退治の依頼、武器や防具の調達、決済などやることは嫌というほどある。加えて、 ビネ・デル・ゼクセに居座るギルドの者たちを宥め、すかし、時には脅し、のらりくらりとかわすことも必要である。今日もサロメがだいぶ無理をしてくれなけ れば、クリスは今も書類の山に囲まれていたはずだ。
最近は書類に囲まれることが多いため、鎧を着けない日のほうが増えてきている。実戦の際、重い鎧に違和感を覚えなければいいのだが。
「……まったく、あの狸親父ども……自分達も一度現場に出てみればいいんだ」
爽やかな風と心地よい日差しの中を歩いているにも関わらず、クリスの端麗な唇から零れ落ちたのはギルドに対する愚痴だった。
戦を知らない者は見落としがちなのだが、軍というものは大きくなればなるほど、何時でも何処でも好きなところへ好きなように動かせるわけではない。大勢 の人間を移動させるにはそれなりの準備というものが必要になる。食料の潤滑な輸送や、野営地の確保など、石造りの部屋の中ではわからないことなど多くあ る。
首根っこを引っつかんで、ぜひとも現場の現実を思いしらせたい面々を脳裏に浮かべながら、クリスはすたすた歩く。ビュッデヒュッケ城の苔むした石垣を右手に見ながら、城にそって角を曲がる。
不意に。
「あ」
どこからか短い声が上がった。思わず声の主を探して、クリスはきょとりと視線を巡らせる。左右、前後……その何処からも声の持ち主を見出すことは出来ず、気のせいだったか、と前に向き直ったとき、視界の端を不可思議な物体が掠めた。
ゆっくりと、振り仰ぐ。
「……ええと、こんにちわ、クリスさん」
そこには、城の窓枠からぶら下がり、気まずそうに微笑しているヒューゴの姿があった。
「……」
見上げたまま、クリスの思考がストップする。おそらくこれは、物凄くまずい現場を目撃してしまったのだろう。なんだかんだといって礼儀正しいヒューゴ は、目があってしまったがゆえに無視することもできず、挨拶してしまったに違いない。ここはひとつ、何も見なかったふりをするのが大人の余裕というものだ ろうか。
中途半端に口をあけたまま、挨拶するでもなく見上げていたクリスだったが。次の瞬間、はっと紫の瞳を見開いた。
「ヒューゴ、危ないッ……」
「え……うわぁぁッ!」
クリスの出現に気をとられていたせいだろう、じりじりと窓枠から離れつつあったヒューゴの両手が、とうとうすっぽりと抜け落ちた。ヒューゴがぶら下がっ ていた窓と地面との距離は相当あり、迂闊に落ちればタダではすまない。反射的に目を瞑り、衝撃を和らげようとヒューゴは受身を取るような体勢を取る。
だが、現実は予想と大きく異なった。
ぼすっ、と力強く、柔らかく受け止める音が響く。
「……うぇ?」
「ヒューゴは軽いな。しっかり食べているのか? 食事と睡眠と運動は、人間の基本だぞ」
何事もなかったように、ヒューゴを両腕でしっかり抱きとめたまま、淡々とクリスが告げた。いわゆるお姫様抱っこの形で受け止めたヒューゴとは、お互い睫 の数まで分かりそうなほど顔が近いのだが、クリスは全く頓着していない。逆に、受け止められたヒューゴのほうが動揺して、首筋まで真っ赤になっている。
それに気づく様子もなく、クリスはふいとヒューゴの顔を覗き込んだ。
「怪我はないな?」
「ああああ、うううううん、だだ、大丈夫」
「そうか、なら良かった」
ぎくしゃくとゼンマイの切れ掛かったからくりのように答えるヒューゴに、あっさりと頷き返したクリスは、ヒューゴを地面へとそっと下ろした。ヒューゴが 真っ直ぐに地面に立つのを確認して、その髪を右手でわしゃりとかき回す。眩しそうに緑柱石の瞳を細め、見上げるヒューゴを暖かく見下ろす紫水晶の瞳は、ど こまでも優しく力強い。
「では、な。気をつけるんだぞ」
「……あ、うん。ありがとうクリスさん」
ヒューゴの声音は、どこか魂を抜かれたようなほわんとしたものだったが、クリスはそれに気づかず、ひらりと手を振って散歩の続きを再開した。目標としている一日一善を実行できたと口許を綻ばせているクリスは、だから知らない。
自分の背中に向けて、ヒューゴが熱い憧憬の眼差しを向けていたことを。
その日の夕方。
「何飲んでるんだヒューゴ? ……ミルク?」
「そう! 大きくなるにはこれが1番ってレオさんが教えてくれたんだ。軍曹も飲む?」
「……そうか。俺は遠慮しとくよ」
「そっか。あのね、俺、大人になったらクリスさんみたいにカッコいい男になるんだ!!」
「……」
瞳を輝かせて力説する少年に、ダッククランの勇士はただただ深い溜息をついたのだという。
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