君ニ狂ウ

 貴女のその優しさが、眼差しが、触れる指先すらもが、俺を狂わせる。
 なんて残酷な貴女。

 スローモーションのようにゆっくりと秒刻みで、克明に映し出される景色には、いつも貴女がいる。銀の髪と鎧に美しくも禍々しい紅を散らして、貴女の身体がぐらりとかしぐ。
 あれほど手を伸ばしたのに。
 ……俺の手は、誰も護れないほどに、小さい。
「……バカだなぁ俺……」
 暗い窓から差し込む月光が酷くうつろに見えて、体を起こした俺はうっとうしい前髪をかきあげる。クリアになる視界と一緒に思考もクリアになってくれればいいものを、ちっとも深紅の靄は晴れようとしてくれない。
 血。返り血。あのひとの、血。
 それは、夢だけど、夢じゃない。今日確かに俺とあのひとを含むパーティは魔物退治に出かけ、そうして俺はあのひとを護りきれなかった。
 護りたかったのに。他の誰でもない、俺自身の手で。あのひとの周りの大人にも負けないぐらいに。
 それなのに、咄嗟に伸ばした俺の手は、ただ魔物にやられただけで、あのひとにはちらとも届かなかった。あのひとは、あのひと自身の力で自らを護った。
 ……じゃあ、俺は? 俺が伸ばした手の意味は?
 ただ、邪魔にしかならない俺の存在の……その意味は?
「……くそっ」
 小さく毒づいたとき、控えめにほとほとと扉が叩かれた。時刻はもう遅い。月が沈みかけている時刻に……誰が?
「……寝ているのか?」
「クリスさん!?」
 予想外のヒトの予想外の声に、反射的に身体が飛び起きる。慌てて扉に駆け寄り、開いたところには私服姿の銀の乙女がいた。
「すまない、こんな時間に……」
「クリスさんこそ、こんな時間までお仕事?」
「……まぁな。仕方のないことだが……」
 ああ、まただ。
 英雄の意志を継ぎながらも、何もできない無力な俺。遺志を継ぐ資格を持ちながら、俺をあざけるでもなく黙々と支えてくれるクリスさん。
 ……それは、俺がまだ子供だからか。
 貴女に支えられるのではなく、俺が貴女を支えたいと思っているのに。どうしていつも、思い通りに行かないのだろう。貴女ひとりに重圧を負わせたいわけじゃないのに、貴女は全てを背負い平気な顔をしている。
 俺の姿を視界に入れないままに。
「遅くなってすまないが、お礼をしようと思って」
「お礼?」
 差し出されたのは、小さな塗り薬の入れ物で。見ただけで高級そうなのは解るそれは、はっきり言って俺に差し出していいものじゃないはずだろうに。
 それなのに、クリスさんはアタリマエのように俺に手渡して苦しそうに笑ってくれた。
「今日、私をかばってくれただろう?」
 息が、一瞬止まった。
 認められたのだ、と。後ろにかばわれるコドモではなく、せめて隣に立つ仲間と見て欲しいのだと。本当は隣ではなく、半歩前に立って貴女を護りたいのだけれど。
 ふわりと取られた手は右手。
 いまだ傷跡も生々しい俺の手に、そっと吐息がこぼされる。
 その優しさこそが……俺を壊すものだと知らないで。
「……本当に、すまないコトをした。私の未熟のせいで……」
「貴女のせいじゃないよ」
 申し訳なさそうに瞳が伏せられて、菫の瞳が翳る。誰しもに優しい貴女だけれど、今俺の傷跡に反応した、貴女の心の痛みは俺だけのもの。
「じゃあ、私はそろそろ帰るから……」
「うん。わざわざありがとう」
「では、また明日……、……ッ!」
 貴女の瞳が。震える唇が。穢れに染まらない貴女の魂が。
 貴女の全てが俺を狂わせるのならば。
 強引に奪った吐息の一つ、代償にしては安いものでしょう?
「ひゅ、ヒュヒュヒュ、ヒューゴッ!?」
「おやすみクリスさん」
 貴女だけが壊す俺の心の鍵。
 完全に解き放たれるのは、もうすぐ。

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