フーバーがビュッデヒュッケ城の庭に着地するやいなや、ぐったりとしたクリスを抱きかかえ、ヒューゴは一目散に走り出した。目的地はクリスの私室である。
「失礼しますっ」
乱暴に部屋の扉を開けると、そこには驚いた顔のアップルがいた。手に彩り豊かな服とを抱えているところを見ると、この機にクリスをいろいろと『飾りつけ』しようと思ったのだろう。
「アップルさん…クリスが苦しそうなんだ…。とりあえず寝かせようと思って帰ってきたんだけど…」
「話はシーザーから聞いているわ。多分大丈夫よ、ヒューゴくん。魔法が切れ掛かっているだけだと思うわ。ほら、後ろ向いて」
「え、なんで?」
「…たとえ小さいといっても、女の子の着替えを見るもんじゃないわよ」
「わっ、分かったよっっ」
バネ仕掛けの人形のようにきゅっ、とヒューゴが背を向けてから、アップルはそっとクリスを寝かせた。
魔法が切れてもとの大きさに戻るのならば、子供の服は窮屈なだけである。ゆっくりと衣服を脱がせてから、アップルはクリスの上からそっとシーツをかけた。ベッドに背を向けたまま硬直しているヒューゴに、柔らかく笑いかける。
「はい、もうこっちを向いてもいいわよ」
「え、あ、うん」
多分に笑みを含んだ声に、ヒューゴは曖昧に頷くと振り向いた。
ベッドに寝かされたクリスは、まだ少し顔色が悪いが、呼吸はだいぶ落ち着いているようだった。
「このままそっとしておけば、いずれ魔法が切れて元に戻ると思うの。あとは任せてちょうだい」
「でも…」
アップルのいうことも解る。自分がこのままこの部屋にいたところで、きっと何の役にも立たないだろう。だが、なぜか妙に離れがたいものがあった。
『ヒューゴお兄ちゃん』
脳裏にあどけない声が甦る。そこには無条件の信頼があった。けれど、きっと元に戻ってしまえば、また前のようにぎこちなく声をかけるのだろう。どこかよそよそしく、一歩退くような声音で。
そんな声で呼ばれたいわけじゃない。そんな辛そうな、痛みを堪えるような表情で見て欲しいわけじゃない。
ルルのことは忘れてはいないし、クリスに対する憎しみを棄てたわけでもない。ただ、いつまで経ってもヒューゴを見るたびに自責の念に駆られるクリスの様子は、見てて痛々しかった。
だから、小さなクリスが自分に向ける瞳の中に、何の痛みも浮かんでいないのが、本当は嬉しかった。
たとえ僅かな夢の間だけだとしても。
「…あれ…?」
小さな呟きとともに、ぽかりとクリスの瞳が開かれた。心配そうにヒューゴが覗き込む。
「クリス、どこか痛いところはある?」
「ううん、ないけど…なんかね、すっごく眠いの。まだお昼なのになぁ…」
「疲れてるんだよ多分」
「そっか…」
「ヒューゴくん」
ふと控えめなアップルの声がヒューゴを呼び止めた。振り向くとアップルがくすくすと笑いながら手招きをしていた。
「なんですか?」
「クリスちゃんとの最後の時間、あなたに全部あげるわ」
「……は?」
「要するに、邪魔はしないってコトよ。じゃあまた、あとでね」
「……………………へ?」
素っ頓狂な返事に構うことなく、アップルは颯爽と立ち去った。その素早さたるや、呼び止める暇も無い。
ぱたん、と軽い扉が閉まる音がして、ようやくヒューゴは顔を真っ赤にした。
「…絶対、何か誤解してるよなアレは」
「ほえ? なにが?」
「なんでもない」
そう、なんでもないことだ。アップルは誤解をしたようだが、自分はクリスにそういう『特別な感情』を持っているわけではなくて、懐かれていたから、相手をしていたから、名残惜しいだけだ。
そうに違いない。
…おそらく。多分。
懸命に自分に言い聞かせるヒューゴに、クリスが何かを思い出したらしく、小さくむぅ、とうなった。
「クリス?」
「あのね、お兄ちゃん。クリス、もっとフーバーに乗ってみたかったな。お兄ちゃん、またクリスを乗せてくれる?」
「…クリスが望むならね」
「約束だよっ」
元気良く差し出された指に自分の小指を絡め、ヒューゴはほろ苦く笑った。
きっと、魔法が解けて元に戻ったなら、この約束も魔法と同時に解けてなくなるのだろう。覚えているとは思えないし、覚えていたところでクリスが自分に願 うことはないに違いない。親友を奪った自分に願う権利はないのだと思って。どんなに小さな望みでも、ヒューゴに対して口にすることは無いだろう。
ふと。
訪れた沈黙に視線を落とすと、指を絡めたままクリスが健やかな寝息を立てていた。
この寝つきのよさはさすが、子供ならではだろう。指を離せば起こしてしまうような気がして、指を絡ませたままただ小さなクリスの寝顔を眺めた。
魔法が解ける、その瞬間まで。
「おやすみ、クリスさん…」
やがて小さな呟きだけを残して、かちゃりと扉が閉められた。
*
「………あ」
思わず唇から声が零れてしまい、反射的にヒューゴは隣を見た。てっくてっく、とのんびりした足取りを緩めないジョー軍曹には、どうやら気づかれていないらしい。
こっそりと安堵のため息を漏らして、ヒューゴはさりげなく進路を変えようとした。が。
「よぉ、クリス」
「…ああ、ジョー軍曹か。今から夕食か?」
「ははは、まぁそんなところさ」
クリスと顔を合わせるのが妙に気恥ずかしくて道を変えようとしていたのに、あっさりとジョー軍曹がクリスに話しかけた。薄い微笑を口の端に漂わせて、向 こうの廊下からクリスがきびきびとした歩調で歩いてくる。珍しいことに鎧を着けておらず、律動的な歩調だけが小気味よく響いた。
ちらりと隣のダックに湿っぽい視線を向けるが、飄々とした余裕のある態度は崩れそうにない。
…つまりは、ヒューゴがクリスを避けようとしているのを知った上で、わざわざクリスに声をかけたというわけだ。
「今日はずいぶんとのんびりしてるんだな」
「本当ならば山のように仕事があるはずなんだが…どうも、風邪を引いていたらしくてな」
「…曖昧な話だなぁ」
「うむ。気がついたら夕方だったのだ。せめて急ぎの分だけでもと思ったのだが…ついでだから今日1日は休みにしよう、とサロメに取り上げられてしまったのだ」
「それで、風邪のほうはどうなんだ?」
「身体の不調は特にはない。どうやらすっかり治ったようだ」
「ははは、良かったじゃないか」
(……………なんか)
すっかり存在を忘れられてる自分の小ささに、ヒューゴの胸のうちにもやもやと灰色の雲がかかる。
軍曹と屈託なく話すクリスに、僅かなりとも微笑が認められたのが、やけに気に障る。
昼間はあれほど無邪気な笑顔を見せてくれたのに。今は視線も、言葉すらも向けてくれない。
それが今までの『アタリマエ』だったはずなのに、酷くいらいらして、自然と険のある声が滑り出した。
「…軍曹、オレ先に行ってるから。じゃあね」
これ以上軍曹とクリスの談笑を見ていたくなくて、言葉と同時にクリスの脇を通り抜けようとする。それを留めたのは、遠慮がちにかけられた声だった。
「…あの、ヒューゴ…」
「なに?」
「…その。良ければまた、フーバーに乗せてもらえないだろうか…?」
「………クリス、さん?」
それは、小さなクリスと交わした約束だ。もう忘れられていると思っていた。魔法が解けると同時に、泡のように消えうせてしまうものだと思い込んでいた。
けれど、クリスは覚えていてくれた。
まじまじと凝視した先で、クリスが懸命に、たどたどしく言葉を紡ぐ。見上げた頬にさっと朱が散っているのが、やけにかわいらしく見えた。
「それに、その…ヒューゴは『炎の英雄』なのだし、わたしのことは『クリス』と呼び捨てにしてもらって、かまわないのだが…」
「…クリスさん?」
「す、すす、すまない。今のは、忘れてくれ。本当にすまない」
これ以上はないほど顔を真っ赤にして、それだけを告げたクリスが、ぎくしゃくとした動きで歩を進める。その腕を思わずつかんで、ヒューゴは笑った。
「今度、天気のいい日にフーバーとピクニックに行かない? …クリス」
どこまでも広がる青い青い草の海に。
お弁当を持ってでかけよう?
その後、暇を見つけては弁当を持って、クリスとフーバーと草原へ出かけてゆくヒューゴに、ゼクセン騎士団その他から邪魔が相次いで入ったことはいうまでもない。
コメントを表示する