賑やかな宴をそっと抜け出して、ヒューゴは小さくため息をついた。
昔は、なぜ戦いの後にこれほどの酒が振舞われるのかわからなくて、遠巻きに見ていたものだ。
今ならばわかる。戦い済んでなお命あることに対する感謝と……もしかすると理解しあえたかもしれない『敵』の血の匂いを忘れるために、戦士たちは空々しいほど陽気に騒ぐのだ。
様子見とはいえ、ハルモニアの軍を退けたチシャの村を包む賑わいは、夜になっても衰えることを知らない。
とりあえず宿に戻ろうかとも思ったが、すぐに見つけられてしまうだろう。少し迷った末に、宿の裏手に広がる林に足を向けた。
ひとりになりたかった。考えることならばいくらでもある。
炎の英雄のこと。ハルモニアの神官将のこと。高速路で見かけた仮面の男たちのこと。グラスランドのこと。
そして。
「……あの、女……」
脳裏に痛いほど鮮やかな銀が閃いて、ヒューゴは苦く小さく呟いた。
ゼクセンの剣であり盾であるゼクセン騎士団。その頂点に立つ銀の乙女クリス・ライトフェロー。
カラヤの村を焼き、ルルを殺し……なのになぜ、グラスランドを守るように戦ったのか。
深く考えに沈みこみながら歩いていたからか、気づいた時には遅かった。
かさり、と草を踏みしめる音が、自分の存在を知らせる。弾かれたように先客が振り向く。
「あ……」
零れた呟きはどちらのものだったか。
しゃらりと銀の髪が風にさらわれた。
*
ひんやりとした林の空気が気持ちいい。
なぜ自分はここにいるのだろう、とどこか遠くでぼんやり思う。
(こいつは、ルルを殺したのに)
「……一度、お前にはきちんと謝っておきたいと思っていた。……済まないことをしたな」
静寂を破るように、クリスがぽつりと呟いた。思わず逸らしていた視線をクリスに向ける。
クリスは深々と頭を下げていた。滑り落ちる銀の髪がさらさらと澄んだ音を立てる。
(どうして)
ぎり、と唇を噛み締める。気がついたら怒鳴っていた。
「なんであんたはッ……そう簡単に謝れるんだ!? あんたは、ルルを…オレの親友を殺しておいて、何をいまさら……ッ!」
「ゼクセン騎士団長としては、戦いのさなかに関しては謝罪できない。謝って、次からしないなどと言えば、次にやられるのはこちらだからな。わたしはまだ死にたくはないし、部下を無用の危険にさらすわけにはいかない。だが……」
憎たらしいほど澄んだ声が響く。つと伏せられた紫水晶の瞳に、長い睫が優美な影を落とす。
こんなときだというのに、彼女はひどく美しく見えた。カラヤで初めて見たときもそうだった。深紅の炎の中で立ち尽くす彼女は、銀の鎧を返り血で染め、鮮血に塗れた剣を手にしてなお、美しさと毅さを失わなかった。
「……だが、わたし個人……クリス・ライトフェローとしては、本当にすまないことをしたと思っている。いかに気を取られていたとはいえ、子供を殺してしまった……」
弱弱しい呟きとともに、クリスが両手をじっと見る。まるで今もまだルルを殺した血で彩られているかのようなしぐさに、ヒューゴは胸を突かれた。
クリスは後悔しているのだ。己の隙を。ルルが襲い掛かるまで気づかず、反射的に殺めてしまった自分を。別の結果を導けたはずなのに、と。
初めて戦場に出た子供のように弱々しく、切ないほどに透明な雫を溢しながら。
そんなことを言ってほしくなかった。謝ってなどほしくなかった。ゼクセンの鉄頭の親分らしく、グラスランドの蛮族と罵ってくれれば、こっちだって遠慮なく憎めたのに。
憎しみを糧に、強くあろうとなれたのに。
「……なぁ……」
途方に暮れたようなヒューゴの声に、クリスはゆっくりと顔をあげた。濡れた紫水晶の瞳が月の光を受けて、きらきらと輝いている。それが臆することなくまっすぐに向けられ、ヒューゴはますます途方に暮れた。
湖の城で出会った若い城主トーマスもそうだった。母親をグラスランドの盗賊に殺されたと、事も無げにあっさり告げたけれど、本当は辛かったに違いない。それなのに、ゼクセンとグラスランドの橋渡しをするべく、懸命に努力していた。不利な立場に追い込まれるとわかっていながら、何も知らずに訪れた自分をゼクセンに引渡しはしない、と言ってのけて見せた。
それに比べて、自分は。
『ゼクセン』の一言で何も知ろうとはせずに、ただ憎んでいるだけなのではないか?
(そのほうが、楽だから)
けれど、気づいてしまえばもう、善と悪だけの簡単な世界に戻ることはできない。それぞれに立場があるのだと気づいてしまえば、自分が正しいのだと無条件に信じることはできない。
だから。
(ごめん、ルル)
喪った苦しさを、辛さを、悔しさを……憎しみを、忘れるわけではない。けれど、それ以上に不思議な感情が胸のうちに沸き起こるから。
「……なぁ、あんた……泣くなよ……」
手を伸ばして、そっと銀の髪をなでた。
ぎこちない手つきではあったけれど。
*
「…すまない、詫びるつもりが逆に慰められてしまったな」
「いいけど別にオレは」
ほろ苦く微笑するクリスに、ヒューゴはぶっきらぼうに答えた。いまだ複雑な心情を抱く相手に素直に謝られると、対応に困る。
隣り合って、互いに前だけを向いて。視線は交わらずとも、気配は感じる。きっと他人から見れば不思議な距離だろう。けれど今は、それでよかった。
遠くもなく、近くもなく。ただ、隣に。
そんな空気のせいか、意識せずともするりと言葉が零れた。
「なぁ、あんた……ルルを、殺したのを後悔してるのか? それは、ルルが子供だったから?」
「……そうだ。騎士の剣は守るべきもののために振るわれるもの。幼子を殺めるためのものではない」
「じゃあ、戦士だったら……大人だったら殺してもいいのか?」
「……難しいことを言うのだな……」
真剣なヒューゴの瞳を正面からやんわりと受け止め、クリスは軽く笑んでみせた。
ヒューゴからは見通せない、何かを含んだ透明な微笑だ。
まだ少年の域を脱しきれないヒューゴにはまだ理解できない過去が、クリスにはあるのだろう。ジョー軍曹がルルを守りきれなかった悲しみを、胸の奥に燻らせてあまり表には出さないように。
「相手が戦士で……戦場で相対したときは、手加減などは無礼だろう。相手を見くびるということだからな。こと戦場においては、何が勝敗を……生死を分けるかは定かではない。ならば全力でもって倒そうとしなければ、逆に己の身が危うくなる」
戦場は互いの信念がぶつかり合うところなのだ。そこで手加減をするぐらいならば、最初から戦にならぬよう話し合いによる妥協点を探すべきなのだ。
「……少年には理解しがたいかもしれないな」
「少年って言うな! オレはカラヤクランの族長ルシアの息子、ヒューゴだ」
「そうか。悪かったなヒューゴ」
思わずむっとしたヒューゴに、クリスは柔らかく微笑んだ。なぜか胸がもやもやする。
ルルを奪った憎い敵のはずなのに。グラスランドを侵略しようとする鉄頭どもの首領なのに。
そう思う反面、表情や些細な仕草ひとつひとつに、視線を奪われてしまうのはなぜだろう。
再び訪れた沈黙の間を、ざわざわと葉擦れの音が通り抜ける。細く清らかな三日月の光を紡いだかのような銀の髪が、風に掬われ、散らされる。
不意にクリスが立ち上がった。同時に遠くからヒューゴを探す声が聞こえる。多分、ジョー軍曹が酒でも勧めようとしてるのだろう。気がつけば、ヒューゴも立ち上がっていた。まだ成長期途中のヒューゴと、女性としては平均わずか上の身長のクリスとが並び立つと、目線がほぼ同じ高さになる。
「……逃げるのかよ」
「わたしが居てはまずいことも多かろう。どちらにしろ、そろそろ行かねばならないと思っていた……潮時というやつだな」
「……なぁ、あんた」
ヒューゴを呼ぶ声は次第に近づいてきている。もう立ち去らせたほうがいいと解っているのに、呼び止めたまま次の言葉が出てこない。律儀に立ち止まり、ヒューゴの言葉を待っているクリスに、ヒューゴはふと目を伏せた。
「……オレが、あんたを倒すまで、誰にも負けるなよ」
「ああ、気をつけておこう」
ふわりと綺麗に微笑んで。翻った鮮やかな銀糸の髪が、あっという間に掻き消える。
その後姿を見送ったヒューゴは、軍曹が呼びに来るまで呆然と立ち尽くしていた。
道が再び交わることを、ふたりともまだ知らない。
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