卑怯な真似をしているという自覚は十分にある。十人が見れば十人ともが口を揃えてヒューゴを非難するだろうし、何よりヒューゴ自身、他人が同じことをしているのを目撃すれば血相を変えて止めに入っただろう。卑怯というよりは卑劣、獣の所業と罵られて当然だ。
「…ねぇ、クリスさん」
沸騰するのを直前で無理に押しとどめる、そんな声色で呼びかける。
「抵抗しないの? コレがどういう状況か…わからないわけじゃないでしょ?」
欲情を含んだ熱っぽい囁きは、いっそ甘いとさえ言えるだろう。異民族の少年に床に押し倒され、文字通り危機に面しているというのに、クリスは抗う様子を一切見せなかった。ヒューゴを見上げるその眼差しはどこまでも静謐で…侵しがたい神聖さに満ちている。
精霊のように。巫女のように。
…だからこそ踏みにじりたくなるのだと、彼女は気づいていないのだろうか。
「それとも…お堅い騎士団長サマは、本当にわかってないの?」
「………わかっている」
服の上からでもわかるふくよかな双丘に、これ見よがしに触れる。そしてようやく…初めて零された呟きは、眼差しと同じように静かだった。何の感情も含まない声音に、いっそう苛立ちが募る。誰にでも見せる美しさではなく、嫌悪でも憎悪でも…自分だけに見せるものが見たかったのに。
ふと脳裏をよぎるのは、先日聞いた異国の神話だ。罪を犯して地上に落とされた女神は、けれど罪を赦されて、月に帰る。薬を飲んで記憶と力を取り戻した彼女は、泣いて縋る夫を無情にも振り捨ててゆくのだ。女神たる記憶を取り戻した彼女が、かつて愛し合ったはずの夫に向けるまなざしは、こんな風に美しく……冷ややかだったに違いない。
「じゃあ、なんで抵抗しないの? 俺が『炎の英雄』だから?」
「そうだ」
間髪いれずに返ってきた言葉に、ヒューゴの表情が凍りつく。瞬きさえ忘れてしまったかのように微動だにしないヒューゴに、クリスは淡々と言葉をつなぐ。
「あなたはグラスランド・ゼクセンの諍いを越えて、『炎の運び手』たちを束ねる英雄だ。その英雄がゼクセンの人間を夜伽に選んだところで、誰も文句を言わないだろう。むしろ、偏見が薄れつつあることを示すいい出来事だと判断するものが多いだろうな。ならば私が抗う必要も無い」
「クリスさんも…」
じわりと視界が滲み、頬を冷たい雫が伝い落ちる。泣き笑いのような表情で、ヒューゴは夢見るように虚ろな声音で呟いた。
「クリスさんも、『俺』を見てくれないんだ…」
わかっていた。この城において、ヒューゴの存在に一片の価値も無い。必要なのは『英雄』の名と存在だけだ。真なる炎の紋章を持ち、人々の上に立つ『象徴』こそが大事であって、ヒューゴという名の少年の願いも哀しみも絶望も、顧みられる意味さえ持たないのだ。
「…それなら…かわりに、俺のものになってよ」
『ヒューゴ』を捨て、英雄を演じるその代償として。誰の物にもならない彼女を、英雄としての立場を利用し、手に入れても構わないはずだ。
それが、ほんのひと時の夢だとしても。
「それが、『炎の英雄』(あなた)の望みなら…」
頷くようにそっと双眸を伏せたクリスの、白いのど元に噛み付くような口付けを落とす。赤く残ったその跡は、まるで堕天の証のようだとぼんやり思った。
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