油断していたのかもしれないし、そもそも浮かれていたのかもしれない。何しろその可能性をまったく考えていなかったのだから。
「ヒューゴさん!? クリス様!?」
振り向き、訝しげに見つめるヒューゴの視線の先には、闊達そうな光を瞳に湛え微笑む老婦人と、優しげに眦を下げる温厚そうな老紳士のふたりだった。
見覚えが無い…そのはずである。ちりり、と胸の奥底をひっかく何かはあるのだが、それが何かは分からない。第一、この地に自分の名と姿を知るものなど、ほとんどもう居ない筈なのだ。
………ほとんど?
「やっぱり…クリス様とヒューゴさんだったんですね。あんまりにもびっくりしたから、人違いかと思いました」
「だから私が言ったんですよ、クリス様もヒューゴさんもとても目立つ人たちだから、間違いのはずはないって」
くすくすと笑いあう老夫婦に、ヒューゴははっと緑柱石の瞳を大きく見開いた。思わず口元を押さえた手が、かすかに震える。
そうだ。どうしてその可能性を忘れていたんだろう。
自分たちを覚えている人がひとりもいないだなんて、どうして思ってしまったのだろう。
「…もしかして…トーマス殿とセシル殿か?」
「はい」
「そうか…」
ほぅっとため息をついて、柔らかくクリスが笑む。その後ろに隠しきれない痛みを感じて、ヒューゴはきゅっと唇をかみ締めると目の前の老夫婦を『見上げた』。
50年前とは違い、もう自分とは目線の高さが違ってしまっている。最後に会ったときはもうこの高さだったけれども、それでも一番記憶に残っているのは、トーマスがまだ『頼りない城主様』だったころの姿だ。この城で過ごした時間は、思い返すと意外と短いのだけれども、その強烈さのせいか少しずつ薄れていく思い出の中で変わらないきらめきを放っている。ややもすれば涙が浮かびそうになる眼を出来る限り優しくして、ヒューゴはふっと視線を上げた。
「すごく、綺麗な城になったよね」
「はい。皆さんが手伝ってくれたんです。人もたくさん集まってくれて」
時折通り過ぎる人々が、トーマスとセシルに微笑を浮かべて挨拶をしてゆく。人に慕われる城主と奥方の幸せな光景に、ヒューゴは思わずクリスと目線を交わし、小さくわらった。
辛くないといえば嘘になる。けれど、かつての仲間の幸せな姿を、こうして目の当たりにすると、ただ素直な祝福だけが浮かんでくる。てのひらから零れ落ちる砂のように、いずれは時の流れに押し流されていってしまうものだと知っているから、なおさらのこと。
「お時間があれば、中に入って、ゆっくりしていってもらえませんか? 僕たちが知っている限りの、他の人たちのお話もしたいですし…」
あの頃と変わらない笑顔に一層の優しさを加えて、ゆったりと手を引かれる。
「あっ、そうだ。後で僕たちの家族を紹介しますね。今はたくさん増えたんですよ」
「もしかしたら、孫の誰かに会っているかもしれませんね」
何しろセシルに似て行動的だから、と笑うトーマスに仄かな笑みを返して、ヒューゴは手を引かれるまま一歩踏み出した。
冬の夜は、まだ長い。
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