夢だとわかりきっている。わかりきっているのに…抜け出す術が思い至らない。不愉快な熱気に包まれて、クリスはぐるりと周囲を見回した。視界を埋め尽くす赤は、足元から立ち上る熱気の象徴か、それとも。
「わかりきっているのに」
ふ、と自嘲して、クリスは微かに双眸を伏せた。全身に纏わりつく汗がひどく不快だったが、だからといって衣服を脱ぐわけにはいかない。それは単に羞恥心だけの問題だけでもない。
なぜなら、ここはクリスの中に巣食う自責と憎悪の群れの、真っ只中でもあるのだから。布一枚といえど、その防御力は侮れない。
「…来たか」
ずるり、と剥がれ落ちるように周囲の地面がまばらに持ち上がり、できそこないの泥人形のような、不自然な人のカタチとなった。どろどろとした、視界に入れるだけで神経を侵食されそうなその魔物が、かつて自分が斬った人たちの成れの果てだと、なぜか自然に理解できた。きっとそれも夢、だから。
夢の中で殺されたものは、魂を殺されて生きていくことは適わないという。ならば、何がなんでも逃げなければ。ここで殺されるわけにはいかない。
剣で叩ききろうかとも思ったが、いつも腰に下げている愛用の剣がない。融通の利かない夢に舌打ちしながら、クリスはしなやかな動作で身を翻した。さすがに魔物相手に素手で立ち向かうほど無謀ではない。この場は逃げて、なんとか夢から醒める術を考えなければならない。
短く息を切らしながら、ただひたすらにまっすぐ駆け出す。けれども、次から次に地面からどろりと魔物が身を起こし、遠巻きに取り囲んでくる。ちらりと視線をめぐらせると、地平線を埋め尽くす魔物の群れが見えた。
あたりまえだ。彼らは自分が切り捨てたものたち。実際に、屍の山を築き血の河を滔々と満たしてきた。ゼクセンのため――その大義名分ただひとつで。
「………くっ…!」
ずるり、と足元の地面が持ち上がり、体が傾ぐ。大きく一歩踏み出し、転ぶことだけは免れたものの、その隙に完全に囲まれてしまった。逃げ場はない。夢ならば空ぐらい飛べるようになればいいのに、と内心毒づくが、その気配はない。
『カ――エ―……セ――…』
『……カエ―セ――』
怨念すら帯びた声を撒き散らして、魔物たちが次々に緩慢な動作で手を伸ばしてくる。あれに捕まれば終わりなのは明らかだった。
返せ。返せ。
命を。時間を。希望を。夢を。
容赦のない鋼で断ち切られたものを取り返そうと、魔物たちも懸命なのだろう。しゅうしゅうと白い煙を立てて溶解しながら、クリスに向けてにじりよる。返せと口々にこだまするこの声音は、呪詛めいてクリスを呪縛する。
逃げなければ。そう思えば思うほど、体が動かなくなる。指先ひとつ動かせないクリスの足元で、ぬめった地面が隆起してゆく。避けられなかった。
手の形をとって盛り上がった土が、がっしりとクリスの右足を掴む。刹那、クリスの唇から堪えようのない絶叫が迸った。
「ああああ――ッッ!」
何らかの毒でも含んでいるのか、掴まれた部分に激痛が走る。立ち上る煙の中に、確実に肉の焦げる臭いが混じっている。
「ああっ、はぁっ、あぁッ――…!」
生きたまま焼け死ぬ。皮膚を、筋肉を、神経をも灼かれ、そして死ぬのだ自分は。じわりじわり、一歩ずつ死に向かうのだ。一息に楽になることも赦されず、事切れるその瞬間まで苦痛に苛まれて。
振りほどこうと懸命に力をこめても、瞬きすることすらできない。その間にも他の魔物たちがじりじりと近寄ってくる。ひやりとした絶望が胸を覆う。
けれど。
「クリス!」
「……!?」
呼びかける声音はまだ若い少年のもの。絶望を知り、憎しみを知り、それでも前に進むことを諦めない、年若い英雄の声に、クリスは動かない右手を懸命に天に伸ばした。
そうだ、こんなところで諦めてなどいられない。このような魔物の群れをもう増やさないよう、そのために彼の支えになろうと誓ったのだから。
「クリス!」
空を覆う黒雲を切り裂いて、光り輝く手が差し出される。その手をがっしりと掴んで、ぐうっと体が引き上げられた瞬間、かちりとスイッチが切り替わった。
「………え?」
真正面にある顔に、クリスはぱちりと瞬きをした。緑柱石の曇りのない眼差しが、鼻先が触れそうな距離からまっすぐに覗き込んでくる。
「大丈夫?」
「え、あ、ああ…」
何が大丈夫なのか分からないまま、曖昧に頷く。気だるい夏の午後、陽のあたる場所で転寝をしていたせいか、全身がぐっしょりと濡れている。椅子に座ったまま寝ていたせいか、全身が軋むような気がする。
「なんか、魘されてたっぽいけど。冷たいお茶のみに行こうよ」
「…そうだな…すかっとするようなものがいいな」
「アイラおすすめのソーダとか?」
「それもいいかもしれない」
他愛の無い軽口を交わしている間に、ようやく冷たい汗の実感がしてきた。するりと手を離し、ヒューゴが飛び跳ねるような仕草で部屋の扉へと向かう。そこでようやく、寝ながらヒューゴの手を握り締めていた自分に気付いた。
魘されて、手を握っていてもらうだなんて子供のようで、少し恥ずかしくなる。普段はクリスのほうが大人なのだから、と何かとヒューゴをからかうことが多いのだが、これからは逆にからかわれるかもしれない。
「はーやーくー」
「そう急かすな」
思い立ったら即行動のヒューゴに苦笑を浮かべて、クリスが立ち上がる。とたん、右足に走った痛みに、クリスは一瞬ぐらりとふらついた。何気ない風を装ってすぐに体勢を立て直したから、ヒューゴからはまだ体が完全に起きていないとしか見えないだろう。寝ている間に虫にでも刺されたかと思って、ちらりと足元に視線をやる。
白い右足に、赤いあざが残っていた。
まるで、人の手が握り締めたかのように。
「…………まさか、な」
それは真夏の午後の話。
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