いつから、と問われれば恐らく、あの夜からすべてが始まるのだろう。血と、焔と、冴え冴えとした月光の元に立つ彼女の姿から。
「……不思議だよな…」
細く微かな月明かりが薄い隙間から差し込んでくる。暑いから、といって窓を開け放していたせいで、カーテンが僅かに揺らいでいる。その端からまっすぐに部屋に落ちる月光は、淡く、脆い。
普通の人間なら、それでもほとんど見えないだろうが、ヒューゴは草原に住む民の一員でもあった。もともと人工の明かりで夜を彩ることは少ないため、総じてカラヤクランの人間は夜目がきく。だから、真夜中の今でも明かり1つつけずとも、隣で健康的な寝息を立てている人間の表情など、くっきりと見て取ることが出来た。
すっきりとした鼻梁。細く長い銀の睫。薄く開かれた艶やかな唇。彼女を形作る全てがいとしいと思い…そう断言できてしまう自分が不思議でならない。ただ憎悪だけが心を占めていたはずなのに、いつのまにか摩り替わってしまっている。
なにか特別な出来事があったというわけではない。もちろん幾つかの出来事はあったけれども、それはただの経過点にすぎない。もし仮に時を巻き戻すことができたとして、それでも違う選択肢を選ぶことなど想いもよらないのであれば、それは分岐点とはなりえないのだから。
だから、きっとあの日のあの夜から。彼女だけが心に刻み付けられたのだ。そうして、一片ずつ拭い取られるように、濁った憎しみが澄んだものへと変わったのだろう。
ふ、と銀の睫が震える。何度か確かめるように瞬きを繰り返し、ようやく薄く目を開けたクリスは、ぼんやりとした眼差しをめぐらせた。眠りの海に未だ身を浸したままらしく、くぐもった呟きがじっとりとした夏の夜を渡る。
「……ヒューゴ…?」
「ごめん、起こした?」
「…いや………だが、お前も寝たほうが、いい…」
「そうだね。明日も早いし」
「…………うん………」
短く頷いて、再びクリスの双眸が閉ざされる。昼日中に見る紫水晶のように凛とした瞳も、夜中に見せてくれる潤む色も、朝方や今のようにふわんとした煙った双眸も、全てが好きでずっとずっと見ていたいのだが…仕方が無い。疲れさせたのはヒューゴ自身だ。
「…にしても、暑い…」
海辺の町のせいか、暑い上に空気がやけに湿っぽい。肌に纏わり付くような不快感に、ヒューゴはさらに窓を開けようと手を伸ばし……直前でとどめた。もし窓を開け、起きるまでにカーテンが揺れて中が見えてしまえば、クリスの姿を見られることになってしまう。この部屋は宿の3階だからまず見られることはないだろうが、それでも万が一ということはある。
クリスの全てを見られるのは、自分だけでいい。
しばらくの暑苦しさは我慢することにして、ヒューゴはするりと薄い掛け布の下にもぐりこんだ。起きていれば暑苦しいと小突かれるだろうが、眠っているクリスは気付かないだろうから、これ幸いとぴたりと寄り添う。ほんの少し湿り気を帯びた素肌は、他人であれば許容できないぐらいに不快だろうに、クリスだとまったく気にならない。むしろ、もっと触れていたいとさえ思えてくるのだが…さすがにこれ以上は明日からの旅に差しさわりが出る。体力的に、というのもあるが、何しろ夏の夜は短い。無茶をすればあっという間に朝が来て、一睡もできないという状況になってしまう。
「おやすみ…」
先に眠りに落ちた人に小さく呟いて、ヒューゴもそっと眼を閉じた。
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