蜂蜜

 もともと昼間から喉のあたりが妙にぴりぴりして、嫌な予感はしていたのだ。異物感、とでもいおうか、違和感が常に喉に纏わりついていて、喋るのも億劫なぐらいだった。そこで大人しくしていれば良かったのだろうが…生憎と日頃の大雑把な性格が祟ったのだろう。もともとクリスは、容姿こそは病弱だった母にそっくりなものの、父ワイアット譲りの健康のおかげか、寝込むということがほとんど無い。そのため、己の不調を軽んじる傾向があったのだ。
 ぐっと喉からせりあがってくる空気の塊を、ぐっと飲み込む。神経が鋭敏になっている喉の粘膜が、悲鳴を上げる。
「…クリスさん?」
「………………いや」
 気配に敏感なヒューゴが、気遣わしげな視線を向けてくる。短く切って捨てるように答えたクリスは、すいと逃げるように視線を窓の外に逸らした。背中に疑わしげなヒューゴの眼差しが、痛いほど突き刺さる。
 昼間、クリスの身体のためにも休もうと言ってくれたヒューゴの提案を、必要ないと却下したのはクリス自身だ。相当長く粘られたのだが、結局は「自分の身体のことは自分が良く知っている」という論調で押し切った。今更辛いなどというのは、クリスのプライドが許さない。
 水でも飲めばおさまるだろうか、とテーブルの上に手を伸ばした刹那、それは襲い掛かってきた。
「…………ッッ!!」
 ごほごほ、と立て続けに咳が出る。途切れることなく、ひっきりなしに続く咳のせいで喉がひどく痛い上に、空気を存分に吸うことさえできない。じわりと眦に涙が滲んでくる。酸素が足りなくて頭の奥がくらくらする。背中に冷たい汗が伝わり落ちる。目の前が暗くなって、ぐるぐるする。痛い。痛い。痛い…!
「クリスさん、これ」
 ひんやりとしたグラスが、そっと指先に触れる。震える手でグラスを受け取ると、わざわざ氷を入れてくれたらしく、からんと涼しげな音がした。こんこん、とあいかわらず収まらない咳をしながら、少しずつ冷たい水を口に含む。こくん、と嚥下すると、水の冷たさが喉に染み入るような気がした。
「どう?」
「……あり、がと…」
 少しずつ、少しずつ水を飲む。ようやく呼吸が落ち着いてきたクリスに、ヒューゴはほっと笑みを浮かべる。
「……すまん。迷惑をかけた」
「そういうのなら、今日はさっさと寝て。あ、その前に何か果物貰ってこようか?」
「…本当に、すまない」
「これからはちゃんと俺の言うことも聞いてよね」
「…う、うん」
 ずびし、と勢い良く指を立てたヒューゴの説教に、クリスはしょんぼりと俯く。この状態では何を言っても説得力はないし、ヒューゴの怒りももっともなものなのだ。グラスを両手で包んだまま、せめてもの抵抗とばかりに小さく呟く。
「明日にはよくなるから…」
「……クリスさんはいい加減、『休む』ってことを憶えたほうがいいと思う。別に急ぐ旅じゃないんだから、明日一日ぐらいゆっくりしたっていいし」
 じゃあちょっと待ってて、と言い置いて、ヒューゴがぱたぱたと部屋を飛び出す。慌しく階段を駆け下りる音を聞きながら、クリスはテーブルに突っ伏してゆっくりと眼を伏せた。階下で宿の女将に向かって、いろいろと頼み込んでいるヒューゴの姿がありありと脳裏に浮かぶ。蜂蜜を入れたお茶が飲みたいな、と思ってすぐに、ふっと笑みが零れた。
(ヒューゴはどんな顔するかな?)
 蜂蜜を舐めたい、といって、キスをしたら、どんな風に驚くだろうか。
 テーブルの冷たさを頬に受けながら、クリスはうつらうつらとそんなことを思った。夢が現実になるのは、もうすぐの話。

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