皿の上には団子が綺麗に並べられている。兎を模したもの、満月そっくりのもの、雲のようにふわふわで真っ白なもの。色も形もそれぞれで、見ているだけで楽しくなる。ビュッデヒュッケ城の若き料理人、メイミの渾身の作だ。
ポットには熱いお茶がなみなみと満たされている。その隣には、おそろいのカップがふたつ。寒いかもしれないから、暖かい毛布も1枚置いてある。
「準備よーし」
ひとつずつ指差し確認しながら荷物を持ちやすいよう纏めたヒューゴは、それらを抱えると勢い良く部屋を飛び出した。
目指すは屋上。今夜は――満月。
そろそろそろ、とヒューゴはゆっくりビュッデヒュッケ城の屋上へと続く扉を押し開いた。この城はあちこち古くて傷んでいるから、どんなに気持ちが 急いていても、丁寧に扱わなければならないのだ。以前、「クリス・ライトフェロー結婚?」の誤報に驚いたボルスがうっかり扉を一枚壊してしまい、アイクが 見守る中修理させられたという事件があったのだ。もしヒューゴが何か壊したら、やっぱりヒューゴ自身が修理するはめになるのだろう。
それは困る。ただでさえ少ない時間が、ますます少なくなってしまう。
用心深く扉を開けると、呼吸を整えながら、ヒューゴはひょいと覗き込む。そこにはすでに先客がいた。明るい黄金の光を受けて、銀の髪が眩く輝いている。 まっすぐに天を見上げる姿は、まるで月光の化身であるかのように神々しく美しく、思わずヒューゴは息を呑んだ。目が、離せない。
声をかけるのも忘れ、ただただ見蕩れるヒューゴに、気配に気づいたらしいクリスがふわり振り返った。ゆっくりと、花開くように、クリスの表情が綻んでゆく。それは、鮮やか過ぎる変化で。
「…ヒューゴ、遅かったな」
月光に劣らない眩しい笑みに、ヒューゴははっと我に返った。慌てて無難な言葉を返す。
「そ、そういうクリスさんが早すぎるんだよ。まだ約束の時間になってないし」
「そうかな?」
無垢な童女のままのあどけない仕草で、クリスが僅かに首を傾げる。呼吸の仕方を思い出したかのようにそろそろと息を吐き出したヒューゴは、クリスの傍にゆっくり歩み寄った。持ってきた荷物を下ろして、手際よく準備する。
「すまない、全部任せてしまって…」
「なんで? そりゃまぁ、クリスさんのほうが確かに早く着いてたけどさ。クリスさん、会議だったでしょ? たまたま早く終わったけど、それは結果論だし。それより、ほら…ここ、座って」
「ああ、ありがとう」
素直に頷いたクリスが、ヒューゴの隣に腰を下ろす。寄り添うようにクリスが座るのを確認して、ヒューゴは二人とも丸ごとくるむように毛布を広げ、かぶさった。秋の夜風は意外と冷たく、体温を奪っていくものだが、これなら大丈夫だろう。
カレリアで買ったお揃いのカップにお茶を注いで、お団子の詰まった皿を並べて、準備完了だ。
「いただきます」
「ん、どーぞ」
律儀に手を合わせるクリスにひとつ頷いて、ヒューゴもカップを手に取った。口をつけると、じんわりと暖かさが体に流れ込んでくる。といっても、ヒューゴは猫舌のため、少しだけしか飲めないけれど。
中から少しずつ温もるのと歩調を合わせて、触れ合ったところからクリスの体温がゆっくり伝わってくる。
「おいしー…」
「そうだな。これはヒューゴが作ったのか?」
「いや、メイミさんに頼んで。さすがに俺、こんなにうまく作れないよ」
「そうか? わたしよりは上手だと思うが…」
「そりゃまぁ、クリスさんよりは…」
「………自覚してるけど、人に言われると少し腹が立つな」
「でも事実だし」
「うぅ…いつか追い抜かしてやるからなっ」
「うん。待ってる」
群青の空に、ぽかりと蜂蜜色の月が浮かんでいる。細く薄い雲が、紗のようにほんの少しだけ流れている。地上ではもうじき刈り入れ時を迎える稲が、さやさやと揺れている。その様は、さながら黄金の海のようだ。
「………うつくしいな…」
「……うん」
どんな高名な画家でも敵わない美しい風景を、愛しい人と共に眺める。それは目も眩むような幸せな時間で。
しかも、それがずっとこれからも続くのだ。どちらかが紋章の呪いから解き放たれるまで。
永遠に。
「また、一緒に見よう?」
「…そうだな…」
花開かせる木々の目覚めと生の息吹を。
煌めく灼熱の日差しと、夜を彩る光の儚さを。
鮮やかに色づく山々や一面に広がる黄金の海原を。
遠く凍てついて澄み切った夜空と、真白く調った雪の結晶を。
広い広い世界の、移ろい行く美しさを、ふたりでずっと見て回ろう。
「約束、だからね」
「ああ…約束、だ」
ゆっくりと更けゆく夜に交わされた、幼く…けれど神聖な誓いを、ただ月だけが見ていた。
「…………って約束したじゃん」
「いや、まぁ、確かにそれは憶えているけど」
突飛なことを主張するヒューゴを、クリスは困惑の表情で見下ろした。
あの時、月の下で交わした約束ともうひとつ、戦の後の約束とを、クリスが忘れるわけがない。ヒューゴがグラスランドに、クリスがゼクセンに戻るその前の 日に言った言葉…「4年経ったら全てを片付けて、ヒューゴのもとにゆく」という約束は、今のクリスの原動力ともなっているものだからだ。だからこそ、五行 の紋章戦争が終結して3年の現在も、平和を維持し、かつなるべく波風を立てないやり方で騎士団長の位を後続に譲るべく、評議会への根回しやら後進の育成や ら、各種方面で励んでいるのだ。
だというのに。
「もう、ひとりで月を見るのなんて耐えられないよ」
「……それで、カラヤを飛び出してきたというのか」
「うん。あ、ちゃんと母さんの許可は取ってきているよ」
むしろ胸を張ってそう付け加えたヒューゴに、クリスは僅かに眉をよせた。そういう問題じゃないんだけど、と口の中で小さくつぶやく。
故郷を飛び出してきたというのに、ヒューゴの表情はやけに爽やかだ。悲壮感など欠片も見受けられない。グラスランド全土を巻き込んだ大きな戦争から3 年、ゼクセンとグラスランドの間に産み落とされた平和はようやく根付いてきたようで、今では気兼ねなく行き来できるようにまでなっている。かつてと違い、 戻ろうと思えばいつでも戻れる状況に加え、族長であるルシアの許可を得ていること、そして何よりもこれから愛しい人とともに毎日を過ごせるという期待が、 ヒューゴの表情を明るくさせている最大の原因なのだろう。
はぁ、と小さく溜息をついたクリスを、ヒューゴが何時になく真面目な面持ちで見上げる。
「ねぇ、クリスさん……………………………………結婚、しよ?」
「………!?」
真摯さの中に僅かな甘みを含んで囁かれた声と言葉に、クリスは一気に顔を赤くした。硬直したクリスに、ヒューゴが首をかしげながら追い討ちをかける。
「……ダメ、かな?」
『ダメだ』
即座にそう答えるつもりだったのに、言葉が喉に貼りついて離れなくて、クリスは無言のまま俯いた。否定の言葉が出ないのはきっと、クリス自身がその言葉 を望んでいたからだ。真昼の太陽を、夜半の月を、暁の星を、飽かず一緒に眺めよう。そう誓った心に、偽りはないから。
「……」
余りにも唐突過ぎたせいで心の許容量を超えてしまい、凍り付いてしまった体をぎこちなく動かす。じっと答えを待つヒューゴの前で、クリスは小さく首を横 に振った。目を瞠るヒューゴをまともに見つめ返すこともできず、紅く染まった頬を隠すように俯いたまま、ぼそぼそと呟く。
「………ダメ、じゃ、ない…」
「…………うん…」
精一杯の、クリスらしい承諾の言葉に、ヒューゴの表情が見る間に綻んでいく。幸せそうな表情のヒューゴをちらりと見て、クリスも小さく美しい笑みを浮かべる。
特別な儀式も、手続きも、何も要らない。ただ、それぞれの信じる精霊と女神に余すところなく、己の心の真実を誓えばいい。
「クリスさん、大好き」
「……わたしも…」
「ダメだよ、ちゃんと言って」
「………………好きだ、ヒューゴ」
「うんっ」
はにかむような笑顔と、囁く声と、目がくらむほど甘く長い口付けは。
それは、永遠に続く始まりの誓い。
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