気配が僅かに変わったのを感じ取って、ヒューゴはゆっくりと目を開けた。薄く開かれた帳の向こうから、鮮やかな月光が部屋に細く入り込んでいる。そろりと身を起こして、ヒューゴは隣に眠る人をぼんやり見下ろした。
月光に負けない鮮やかな銀が、白いシーツの上に無造作に散っている。冷ややかさと硬さと…ほんの少しの柔らかさと甘さを含んだ美貌が、いつもと異なり僅かに歪められているのを見て、ヒューゴはやはり、と小さく溜息をつく。
二人で旅に出て。宿で同じ部屋を取り、こうしてひとつの寝台を二人で分けるようになって、どれだけの時間が過ぎたのか。少なくとも故郷では二人ともとうに伝説の彼方となるだけの時間が、過ぎ去っているはずだ。
にも関わらず。
「………ッ!」
硬く食いしばられたクリスの唇から、小さな呻き声が零れ落ちる。ぎゅっときつく閉ざされた双眸が、あたかも現実を拒絶しているかのように見えて、ヒュー ゴはそっと手を伸ばした。爪がてのひらに食い込みそうなほど強く握られたクリスの両手を、ふわりと包み込む。真なる紋章を宿し、成長が止まったせいで、 ヒューゴのほうが手は小さく、完全に包み込むことは出来ない。
それでも、彼女を温めることができるのは、他の誰にも譲れない、自分だけの特権だから。
「…はぁッ……あ、ああっ…」
クリスの呼吸が速く、浅くなる。血の気の失せた唇から零れ落ちる微かな悲鳴が、次第に近づく夢の終わりを告げていた。
そして。
「あああああああああああああぁぁぁッ………!!」
闇を劈く絶叫とともに、クリスが跳ね起きた。ただでさえ白い顔色が、僅かな月光でそれとわかるほどに青ざめている。紫水晶の瞳には、絶望と苦悩と恐怖とが色濃く浮かんでいた。悪夢の残滓に足首をいまだ掴まれているらしく、細い体がかたかた震えている。
クリスの傷は、まだ癒えていないのだ。
炎と血に彩られた惨劇の夜、自らかけた呪いに囚われたまま。
「……大丈夫だよ、クリスさん…」
剣を振るう者とは到底思えない、やわらかい肢体を抱きしめて、ヒューゴは小さく囁いた。何度も何度も、落ち着いた口調で囁いているうちに、少しずつクリスの身体から不自然な力が抜けていく。
「大丈夫、俺はここに居るから…」
「ほんと……に…………?」
ぼうと煙った瞳を揺らがせて、幼子のような頼りなさでクリスが問いかける。無防備で傷つきやすい魂を抱え込んだまま、終わりの無い悪夢に繰り返し繰り返し苛まれる彼女に、ヒューゴはゆっくりと頷く。
「約束だから。俺は、あなたに殺されたりなんかしないから。絶対にあなたを守るから。だから…」
隣で笑っていて。ずっと傍に居て、共に歩いて。願いは多くあるけれども、今はただ。
「……ゆっくり、おやすみ…」
ヒューゴの声に促されるように、ゆるゆるとクリスの双眸が閉ざされる。ヒューゴにしがみついたまま、次第に全身の力を抜く彼女を抱きとめたヒューゴは、ようやく眠りについたクリスを起こさないよう、慎重に寝台に戻す。
先ほどよりは随分と和らいだ表情で、再び眠りに落ちたクリスを見下ろして、ヒューゴは再びこっそりと溜息をついた。
ヒューゴの中ではもう、あの晩を恨む気持ちはほとんどない。薄情と罵られるかもしれないが、それが正直な気持ちだ。年月の効果というのは絶大なものがあ り、少しずつ水に洗われた石が丸く小さくなっていくように、ヒューゴの中ではクリス「だけ」が悪いと責める気持ちは何時しか溶け去っていた。
クリスもルルも…破壊者も、そして自分も。誰しもがそれぞれ過ちを犯した。誰かひとりが悪いのだと「真犯人」をつくることで己の罪から目を逸らすような幼さは、今のヒューゴには無い。
けれども。
「クリスさんは、厳しすぎるよ…」
誰よりも彼女は己に対して、潔癖すぎる。繊細で優しくて厳しくて…だからこそ、脆い。
昼間、あどけなくクリスに手を振り、笑いかける幼子の姿を見ただけで過去を甦らせ、うなされるほどに、彼女は自分自身の罪を糾弾してやまないのだ。
今もなお。それこそが正しい償いだと言わんばかりに。
そして、それを助長しているのが自分なのだ。ルルと同じカラヤ族で変わらぬ年頃の少年…その姿をとどめたままの自分がいるからこそ余計に、クリスの記憶は薄れないのかもしれない。
けれども、今更離れるなんて選択肢は無く。
「………」
堪えきれない恋情を抑え、ただただクリスを見つめていたヒューゴだったが、ふいに眼差しを巡らせて扉のほうへと向けた。薄い扉の向こうで、僅かに人の気配がする。あまり頑丈とは言えないつくりの場所なため、もしかしたら他の人間を起こしてしまったのかもしれない。
大型の猫科の動物のような身のこなしで、するりとヒューゴは寝台から滑り降りた。足音と気配とを綺麗に消して、ゆっくりと扉に向かう。だが扉の前に立ったとき、音にならない共鳴を伝えてくる右手の紋章に、ヒューゴは僅かだけ警戒を緩めた。
故郷とはまったく違う土地に新たに集った星の中、真なる紋章を宿したものは、クリスとヒューゴを除けば、今はひとり…否、ふたりしかいない。
差し込む光がクリスの顔にかからないよう、慎重に扉を開ける。ヒューゴの予想通り、そこにはひとりの少年が立っていた。艶やかな黒髪を緑のバンダナで束 ね、強い光を宿す瞳を柔らかく和ませている。悪戯好きでやんちゃな一面だけが目立つ彼だが、その内側にそれだけではないものがあることを、ヒューゴは知っ ている。
彼もまた、ヒューゴと同じく永遠に等しい時間、紋章に縛られる身なのだから。
「…起こしちゃった?」
「いや、もともと起きてたんだけど」
ヒューゴの問いに、少年がひょいと肩をすくめる。ではなぜ、と言いたげなヒューゴの様子に気づいたのか、少年は僅かに苦笑した。
「ほら、昼間ちょっと様子おかしかっただろ?」
さりげなく投げかけられた言葉に、ヒューゴはほんの少し目を瞠った。昼間、幼子を見かけたときのクリスの反応は、本当にごくごく小さなもので…決して自分以外には気づかないだろうと思っていたのに。
それだけクリスのことを気にかけてくれる人がいる、という喜びがある反面、自分よりも遥かにつきあいが短い人に気づかれた、悔しさもある。
複雑なヒューゴの心境を読み取ったらしく、少年がもう一度苦笑する。
「フィンが、ね。僕は気づかなかったんだけど、クリスさんの様子がおかしいからって。多分、自分じゃかえって気遣わせるから、年長者の僕に様子を見て来いって追い出されてきたんだよ」
「…フィンが…? それって何かの間違いじゃないの?」
「ま、動揺する気持ちもわかるけど。僕もびっくりしたし。フィンのまともな気遣いって初めてみたよ。ああ、でも気遣いみたいな上等なものじゃなくて、野生の勘かもしれない」
「…そこまでは言わないけれど…」
この砦で仲間を取りまとめる、天真爛漫・自由奔放・喧嘩上等・俺様主義などなど形容する言葉の種は尽きない少女の、意外な気遣いにヒューゴは目を丸くし た。そういうのはむしろ、目の前の少年のほうが似合っていそうな気もするのだが。何しろ長い長い年月を放浪して生きてきた彼は、奔放な一面とは裏腹に、案 外気遣い上手な年長さんでもある。
緊張が解けたヒューゴの様子に、表情を和ませた少年は、少しずつ確かめるように言葉を紡いでゆく。
「仲間だからといって、無理に事情を話せ、とは言わないよ。ただ…僕たちは『同じイキモノ』だから。なんとなく解る部分もあるし、だからこそフィンも僕を来させたんだと思う。けれど…クリスさんには、君がいるはずだから」
クリスが辛いときには、笑ってあげればいい。ただそれだけでも、違うはずだ。
少しずつ少しずつ、そうやってクリスは癒されているはずだから。
さらりと告げられた言葉に、ヒューゴの眦がじわり滲む。
「………だと、いいな」
そうであればいいと願う反面、彼女の傷をえぐり続けるであろう自分がひどく疎ましく、どうしようもなく…誰かに、認めて欲しかった。
間違っていないのだと。傍に居ていいのだと。
彼女の役に立てている自分を、確認させてくれる言葉で。
「そりゃあ、決まってるだろう。君だってクリスさんが居て、笑ってくれるだけでしあわせになれるんじゃないかい?」
小さく笑ったヒューゴに返ってきた答えは簡単で…だからこそ信じられるような気がした。こぶしで乱暴に眦を拭い去ると、精一杯の笑顔で答える。
「…ありがとう…」
「いやいや、お役に立てて何より。ていうか、そういうのはフィンにも言ったほうがいいかも」
「素直に言うと手が出るよ。照れ屋だから」
「…でも、言わないと足が出るぞ多分」
「……………そだね…」
互いに見合わせて、苦笑する。その鼻先をひんやりとした空気が掠めていった。
もう、夜もかなり更けている。さすがにそろそろ寝ないと、明日がきついかもしれない。
「じゃあ、僕はもう寝るけど…君も早く寝なよ」
「うん、そうする。ありがと」
小さく手を振って、少年が立ち去ってゆく。その後姿を見送って、ヒューゴはそろそろと扉を閉じた。気配を殺してゆっくりと寝台に戻る。月の位置がいつの 間にか大きく動いているようだった。角度のせいでまったく月光は差し込んでこなくなっていたが、かわりに仄かな星の光がうっすらと照らしている。
「良かった…」
悪夢からだいぶ離れつつあるのだろう、いまだ眠り続けるクリスの眉間の深く刻まれた皺が、薄くなっている。表情もかなり穏かで、呼吸も安定している。安 堵の息を零して、ヒューゴはそろそろとクリスの隣にもぐりこんでいった。立ち話をしていたせいで、体が相当冷えているらしく、寝台の中がひどく温かく感じ られる。冷たさでクリスを起こさないよう…けれどもぬくもりを感じられるよう、慎重に距離をつめてゆく。
「クリスさん、大好き…」
今はまだ、傷をすべて癒してあげれてないけれども。彼女が真っ直ぐに歩くその隣を、離れずに歩いていくから。果て無き道を、永遠に。
だからどうか、目が覚めたら笑って。
「おやすみ…」
夜が明けたらきっと、その願いは叶うはず。
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