憎かった。怨んでいた。それは当然だ、血を分けた息子を殺められ、なぜそれを許せるか。
けれど、罵詈雑言を投げつけられ、ただ一人立つ彼女の姿はあまりにも痛々しくて。
何も、言えなかった。
遠く城のほうから、賑やかなざわめきが届いてきて、ルースは僅かに表情をゆがめて空を仰いだ。群青の帳に多くの星が散りばめられて、きらびやかな光を放っている。
カラヤの戦士ジンバが逝ってからちょうど一月ということで、ビュッデヒュッケ城ではジンバの死を悼む宴会が開かれていた。宴会、というのもおかしなもの だが、こういうときは湿っぽくするのではなく、むしろ酒を飲んで陽気に騒いで死者を慰めるのが、カラヤの風習なのである。
時間はもう夜。船の甲板に来たところで、干す洗濯物などありはしないのだが、自然と足が向いてしまっていた。
ジンバ。……またの名を、ワイアット。
ルースのもうひとりの息子であり、真なる水の紋章の所有者でもあり……ルースの息子、ルルを殺したクリス・ライトフェローの父親。
剣を向けた息子が悪いのか。切り捨てた彼女が悪いのか。あるいは、彼女が村を焼かねばならぬような状況に追いやった者が。
考えれば考えるほど、ぐるぐるしてくる。
誰かだけが悪いのではない。誰もが過ちを、犯した。
「……あ、……」
小さな呟きが零れる。
考え込みすぎていたのかもしれない。その声でルースは、初めてその人影に気づいた。
船の手すりにもたれ、ぼんやりとこちらを見る銀髪の女性……クリスに。
「……ルース、殿……」
何を言うべきか迷うルースの前で、紫の瞳が辛そうに伏せられる。
その表情に、ルースは昼間の出来事を思い出した。
どれほど協力体制を作ろうとしてても、人の意識はそう急には変えられない。それでも、同じように村を焼かれ、同胞を失ったイクセの村の人々はグラスラン ドの民に対し友好的になってきているが、一本気な……それだけに視野が狭いとも言えるカラヤの民は、特にクリスに対し態度がきつい。
気持ちは分かる。けれどルースは同時に思うのだ。同じ事をした自分達が、自分達だけが、声高に責めることができるのか、と。
「……すまない、邪魔をしてしまったな」
視線を落としたまま、硬質の声が涼やかに響く。何かを押し殺したような響きに、ルースはふと眉をひそめた。
人気の無い、船の甲板。ジンバが死んで一月の、今日。
「……アンタもジンバを悼んでたのかい?」
「違う! ジンバなどいう男は、私は知らない!」
するりと滑り出た問いに、病的な反射速度で答えが返ってきた。熱した鉄板に触れ、手を引くような……そんな痛々しい、速さだ。きっとこちらを睨む瞳に傷ついた光が浮かんで見える。
まるで、手負いの山猫のよう。
「ジンバでもワイアットでも……名前は違っても、人は同じだろう? 悼んでやれば、いいじゃないか」
「あの遺跡で亡くなったのは、ジンバという名のカラヤ族の戦士です。私の父ワイアットは……もう、とっくに、どこにもいない」
潤んだ瞳で、それでも涙を零さずに言い放つ少女の姿に、ルースは声も無くああ、と呟いた。
父は早くに姿を消し。母もその後すぐに亡くなったと聞いた。村人全員で子供を育てるカラヤとはまるで違うゼクセンで、彼女は。
きっと、泣く事も知らずに育ったのだろう。
クリス・ライトフェロー。ジンバの娘。もし、運命の歯車がひとつ違えば、ジンバと同じように自分の娘にもなっていたのかもしれない……哀れで、不憫な少女。
「……では、失礼する」
きゅっと唇を噛み締めて、立ち去ろうとするクリスの腕を、とっさに掴む。鎧を纏っていない身体は予想以上に軽く、あっけなく引き戻すことができた。
「何を、……!」
「アンタはもう少し、泣く事を覚えたほうがいいよ」
真正面に捉えたクリスの身体が、ぎくりとこわばる。表情を失ったアメジストの瞳が、まっすぐにルースを映し出す。
凍りついたように動かないクリスの身体に、ルースはゆっくりと両手を回した。細い肢体を包み込むように、柔らかく抱く。
この身体がルルを殺した。……そしてこの身体に、ジンバは想いと未来を託した。
「アンタはちゃんと斬った者の死を悼んでる、優しい子さ。斬った人の、命の重みをわかってる……そうだろう?」
「違う、私はそんなのでは……」
「誰がなんと言っても、アンタがどれほど否定しても、アンタは間違いなくジンバの娘だよ。だから……一番、ジンバの死を悲しんでおやり」
離れようともがくクリスに、それでもルースは抱きしめたまま囁く。本気で力を出せば振り払えるだろうに、それをしないクリスの甘さが優しかった。
クリスからはルースの表情が見えず、ルースからもクリスの表情は伺えない。
それで、いい。
「……なぜ……? 私は、貴女の息子を、殺めた者だ。そしてジンバも……私が殺めたような、ものではないか……」
抵抗をやめたクリスがぽつりと呟いた言葉に、ルースは淡くわらった。
「アンタはジンバの娘だ。さっきそう言ったじゃないか。……なら、わたしにとっても娘みたいなもんさ」
憎しみを。怨みを忘れたわけではない。抜けない棘のように、いつまでも心に刺さり続けている。
けれど、それだけでは生きていけない。もちろん、憎悪だけを糧に生きてゆく人もいるだろう。けれど、ルースにはできない生き方だった。
「ジンバは立派な男だった。わたしやアンタが誇りに思うような、ね。だから、泣く事は恥ずかしいことなんかじゃない。もっと一緒に生きていきたいと思うほど、立派な男だったんだ……そう、詰ってやりなよ」
「……ルース殿……」
きゅっと肩の服を掴み、押し殺した嗚咽を響かせるクリスの背を、あやすようにそっと緩やかに撫でる。ぽとりぽとりと肩に落ちた滴が服にしみこみ、じんわりとした冷たさと生暖かさを伝えてくる。
「……そんな他人行儀な呼び方じゃなくてさ。あの子のように、『ルース母さん』と呼んでくれないかい?」
「……ルース、母さ……」
その呼びかけを最後に。
堰をきったように、泣きじゃくるクリスの髪を、ルースはそっと撫でた。
「……クリス……」
初めて触れる銀の髪が、さらりと滑り落ちた。
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