黎明はいまだ遠く

 目を閉じれば脳裏に一面の紅が広がり、シェンルフィーダは跳ね起きた。

 

「……はっ、はぁッ……」
 手で口元を押さえても堪えきれない吐き気に、シェンルフィーダはぎり、と奥歯をかみ締めた。
 バロウズ卿がティエンに与えた私室は広く、無駄に豪勢なつくりになっている。贅を尽くせば人形扱いを誤魔化せるとでも考えているかのようなバロウズ卿の「忠誠心」を、これまで内心うんざりしつつも甘受していたのだが、今だけは僅かに感謝したかった。広い室内に他人の気配はなく、ただ寂寞とした空気に満ちている。
 おそらく、部屋の外にはリオンが控えている。気配に敏い彼女のことだから、室内の……シェンルフィーダの異変には気づいているはずだ。その上で、リオンとさえ顔を合わせたくないシェンルフィーダを気遣い、あえて入室しないのだろう。
 それは、正しい判断だ。もし今リオンが入室し、気遣ってくれたら……きっと彼女さえも傷つけてしまう。八つ当たりだとわかっていて、その上で、同じように傷ついているリオンをそれでも。そして、傷つけたことにさえ傷ついて、もうどうしようもなくなってしまうのだろう。
「……ッッ!!」
 気を抜けばすぐに、胃の中のものが逆流しそうになる。抗わずに吐いてしまえば楽になるが、かたくかたく唇をかみ締めてひたすらに耐える。ぎゅっと握った手のひらに爪がくいこむが、痛みはまったく感じなかった。
 楽になど、なってやらない。己の弱さを認めるのは大事だけれども、今は必要なかった。
 心が、折れてしまう。
「…くぅっ…!」
 父が死に母が死に、妹が囚われの身となって。
 しばらくの間は、まるで実感がなかった。今までのようにゲオルグとサイアリーズ、リオンと共に視察の旅に出ているだけで、ソルファレナに戻ればいつものように出迎えてくれるのではないか、と……どこかぼんやりとしか感じられなかった。
 けれど、ルナスを抜けレインウォールに腰を下ろし、多くの人と出会うことで、いやおうもなくこれが現実なのだと思い知らされた。痛ましい出来事と慰められるたびに、心の中のどこかがきしんだ。そして、次第に滲んでくる喪失の痛みを忘れるように、夜毎悪夢が繰り返されるのだ。

 あの夜。太陽宮殿で起きた惨劇。

 白亜の宮殿に忍び込んでくる、闇色の暗殺者たち。次々に伸ばされる凶手を振り払い、広々とした謁見の間でフェリドがただひとり、剣を振るい続ける。輝きを抑えた鈍い金と、落ち着いた黒とで彩られた女王騎士の衣服はすでに、己の血と返り血とで真紅の斑に染まっていた。
『――――、――』
『――、―――――――――』
 油断なく周囲を見回しながら、それでも気遣うフェリドに、アルシュタートが青ざめた美貌にこわばった笑みをかろうじて浮かべて応じる。予想をも遥かに越える周到さで仕掛けられた罠はひどく頑丈で……けれども、それを食い破った先にしか道はない。国を統べる女王が宮殿を棄てて逃げることなど、アルシュタートは自分自身許せないし、死地と知ってなお踏みとどまろうとする誇り高さも含めて、父は母を愛しているのだから。
 そして母もまた。最期の最期まで母を守ろうとする父の不器用さと強さを、本当に愛していて。だからこそ、精神の均衡を崩しながらも、国のため……何よりも愛する夫のために、太陽の紋章の力を解放し、敵を灼き尽くす。
『…――――』
『―――――――――――。―――――――――』
 けれども、幾らフェリドが名うての剣士だとしても、幼いころからただ人を殺す術だけを教えられた者たちを相手に、そういつまでも持ちこたえられるものでもなく。流れ出る血の量は次第に増え、容赦なくフェリドの体力を奪っていく。そして。
 一瞬。失血のあまりほんの僅かだけ視界が霞み、生じた隙を暗殺者は見逃さなかった。容赦なく振るわれた刃が、フェリドの頚動脈を掠め、高々と血飛沫が上がる。ぐらりとくず折れたフェリドの唇が、最期に呼んだのは、妻の名前かそれとも。
『――――ッ!!』
 迸る絶叫と共に、赤光が辺りを薙ぐ。怒りと絶望とを双眸に燃やすアルシュタートの姿は、まさしく破壊の女神のようで、普通の人間なら近寄ることさえできなかったに違いない。しかし相手は『幽世の門』……女王への敬意を持たぬものにとって、結局アルシュタートはただの無力な女に過ぎず。
『………ッ』
 振り下ろされた刃が、胸を貫き通す。白磁の肌を、こぽりと溢れ出た鮮血が流れ落ち、フェリドの血と交じり合う。倒れ伏したアルシュタートはそれでも、限り在る力を振り絞って、冷たくなったフェリドへ指先を伸ばす。触れようとした刹那、鈍色の刃がもう一度――

「……ッ、くッ、……ふ、……ッ!」
 どのようにして父が倒れ、母が殺されたのかは知らない。シェンルフィーダ自身は太陽宮殿を脱出しようとしていたし、現場を知るものはおそらく両親を殺害したものたちだけだろう。だからシェンルフィーダにはその場の状況など知りようもないし、夢はただの想像に過ぎない。けれども、毎晩シェンルフィーダを苦しめる悪夢は、まるで目の前で起こった出来事のように、ひどく生々しい現実感を伴って繰り返されていた。
 美しい宮殿を染め抜いた、紅。いつかはその中にリムスレーアも含まれてしまうのか。安易に予測できる未来は、だからこそ何よりも恐ろしい。嘔吐感をも押さえ込む強い惧れが、ぞくりと身体をあわ立たせる。
(……させるものか…)
 誰よりも愛しい妹。その聡明さも、わがままなところも、寄せられる全幅の信頼も、母譲りの誇り高さも、何もかもが愛しかった。大切だった。自らの手で守りたい、ただ一人の妹だった。ただ彼女のためだけに、自分は強くあろうとしたのだ。国を支える女王となるべき妹、ならば自分はその妹の支えになろうと、幼いころの誓いそのままに。
(…取り戻す)
 国も、妹も。自分の全てを奪ったあの青年から、必ず奪い返してみせる。
 周りの誰を踏みつけにしても。あるいは逆に、周囲の全てを欺いて、理想の『王子』を演じてでも。
「…………待っていろ」
 口の中に広がる鉄錆の味を、決して忘れることはない。この痛みも、絶望も、何もかもを糧として、今度はこちらがその喉笛を食いちぎってやる。

 黎明はいまだ遠く、誓いを聞く声はない。

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