「うーん…」
しんとした部屋に、時折クリスの小さな呟きだけが響き渡る。よほど集中しているらしく、唇から思考がもれているのだ。
「うーん…予算がなぁ…何を削ったものか…」
ごろん、とベッドに寝転んでいるヒューゴからは、熱心に机の上に視線を落しているクリスの横顔しか見えない。クリスの集中力の高さは知っているが、こうも書類だけに熱中しているのを見ると、いささか拗ねたくもなる。
せっかく早く帰ってきたから、ベッドでゆっくり『仲良く』しようと思っていたのに…単に書類仕事を持ち帰っただけとは。
内心はしゃいでベッドにもぐりこんだ数時間前の自分に心の底から忠告してやりたい。基本的に鈍いクリスに期待するなと。もう力いっぱい。
「…いや、やっぱり毟り取ったほうが早いかなぁ…」
うーんうーん、と唸るクリスにため息をついて、ヒューゴは手許の本をぱたんと閉じた。ゼクセンのお伽話をたくさん記したその本は、いつもならヒューゴの脳裏に色鮮やかな景色を描くのだが…今夜はさっぱりだった。何度読み返しても、空々しい文字の列が滑り落ちていくだけだ。
それよりも、もっとうつくしいものを望んでいるから。
「……クリスさぁん…」
「今は仕事中なんだ、話なら後で聞く」
閉じた本をサイドテーブルに投げ出して、ヒューゴはできるだけ甘えるように呼びかけた。それに対して、クリスは視線を上げようともせず、ごく普通の声音で応じる。そこまでは予想の範囲内だから、特にがっかりはしない。問題は、これからだ。
「んー、ちょっとしたお願いだよ。先に俺、寝ようと思って」
「そ、そうか?」
眠そうな声音を繕ってそう告げると、あっさりクリスはそれを信じたようだった。慌てて顔を上げ、こちらに向ける表情にも声にも、「申し訳ない」という気持ちが素直に現れている。
…………毎度の事ながら、騙されやすいというかお人よしというか…ちょろいというか。
「だから、ちょっとだけ手を握ってて?」
「わかった。…まったくヒューゴは子供だな」
からかうような含み笑いを浮かべて、クリスが立ち上がった。少しだけむっとするものの、文句を言いはしない。下手に抗議などして機会をふいにすれば、そのほうが勿体無い。
ベッドの脇に立ったクリスに、そっと手を差し出して、握る。その瞬間、全身の力をばねのようにして、クリスの手を思い切り引っ張った。不意を突かれたクリスがベッドに倒れこむと、すかさず中に引きずりこむ。
「ヒューゴ!?」
「たまには休憩も必要でしょ?」
「ちょっと待てッ! お前とは休憩にならないから…!」
「大丈夫、今は冬なんだし…後でお茶も淹れたげるし」
「そういう問題じゃ、…!」
ふ、と、こぼれる甘い吐息を封じ込めて。
冬の夜は、まだ長い。
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