フラワー

「これ」
  短い言葉と同時に差し出された小さな花束に、クリスはぱしぱしと目を瞬かせた。どこからか摘んできたのだろう、小さな草花を細いリボンで束ねただけの慎ましさから、手作りであろうことが容易に察せられた。ふるふると揺れる花弁は柔らかく、瑞々しい。
 勢いに促されるようにして、花束を受け取る。そっと顔に近づけると、折られたばかりの茎から香る、植物独特の青臭さに混じって、山間の清流を思い出させるような清々しさが広がった。
「ありがとう。けど……どうしたんだ?」
「どうしたって…」
 クリスの反問は予想外だったらしい。返事に困った様子を見せて、ヒューゴはがり、と頭をかいた。しばらくうろうろと視線をさ迷わせていたが、やがて明後日の方向を見ながらぽつりと呟く。
「…誕生日」
「……………え?」
「だから、『誕生日』。そりゃクリスさんが自分のことに無頓着なのは知ってたし、多分クリスさん自身忘れてるだろうとは思ってたけど。やっぱそういう『節目』って大事じゃないかと思って」
 ぶっきらぼうな口調で付け足されて、クリスはああ、と短く呟いた。
 誕生日。自分がこの世界に産み落とされた、日。
 すっかり忘れていたのは事実だ。クリスが無頓着だとヒューゴは言うが、それだけではない。長い長い年月は、クリスの中から日付に対する関心を少しずつ削ぎ落とすには充分で………今ではもう、自分の年齢さえあやふやになってしまっていた。過去に何があったかは憶えていても、それがどれほど昔のことか、曖昧にしか残っていないのだ。
 それを、ヒューゴは憶えていてくれていた。クリス自身、忘れていたことを。
「……何歳になったんだろう?」
「知ってるけど教えない。3年前、うっかり言ったらクリスさん、女性の年を言うのはどうこうって怒ったし」
「そうだったか?」
 それも憶えていないのか、と不貞腐れるヒューゴを他所に、クリスはもう一度花の香りを嗅いだ。花の美しさを、良い匂いを、忘れることがあっても、今の幸せな気分が無くなるわけではない。思い出せないだけで、幸福な気持ちは確かにあるのだし、思い出自体は記憶の引き出しにきちんとしまわれているのだから。
 長い旅路の間に、嫌な事だって無いわけじゃないけれども、こんな風に幸せな瞬間は確かにある。そして、これからも。
「本当に、ありがとうヒューゴ」
「…どういたしまして」

 本心からこぼれるのは、花よりも美しい微笑み。

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