「わっ、ちょっ、待っ…!」
慌ててかけた制止の声は、間に合わなかった。カァン!という甲高い音を澄んだ秋空に響かせて、ヒューゴの手から訓練用の短剣が飛んでゆく。くるくると宙を待った大振りの短剣は、ぺたんとしりもちをついたヒューゴのすぐ後ろにざっくり突き刺さった。もう少し角度が悪ければ、ヒューゴの額を直撃していたはずである。木製の訓練用とはいえ、本物と同じ重量になるよう、中心に鉄が仕込まれている。しゃれにならない破壊力が容易に想像できて、ヒューゴは身体をこわばらせた。
「よし、もう一度…」
「……………せ、せめて休憩を………」
「ダメだ」
ぜぇぜぇと息を切らせながらのヒューゴの要望を、クリスはにべもなく切り捨てた。日暮れを間近に控えて、ひんやりと漂い始めた空気が、汗だくの身体をぞくりと冷やしてゆく。クリスも同じように汗をかいて、疲れているはずなのだが、クリスに訓練を終らせる気はないらしい。
クリスに請われて訓練を始めてから、もう3時間ばかりがたつ。最初の頃はまともに向き合えていたが、さすがにもう体力の限界だった。立ち上がったとしても、まともに短剣を握れるかどうかさえ怪しい。
正面から訴えても、クリスはとにかく頑固だ。少しずつ搦め手で行くしかない。とりあえずの時間稼ぎもかねて、ヒューゴはまっすぐにクリスを見上げた。
「訓練の、やりすぎは身体によくないよ?」
「わたしなら大丈夫だ」
……俺が大丈夫じゃないよ、という文句を飲み込んで、ヒューゴは視線をさまよわせた。この切り出し方はダメだ。別の方向から行かねば。
「…ていうかさ、何で急にこんなにやり始めたの? そりゃ、強くなることは大事かもしれないけど…やりすぎだよ。何か理由があるの?」
「そ、それは……」
ぐ、と詰まったクリスに気付かれないよう、そっと握りこぶしを作る。
どうやらなかなか、いい所を突いたらしい。あとは、このままずるずると会話を続ければいい。少なくとも、こうして話している間は休憩できる。
「俺には言えないこと?」
「う、いや、その…大したことでもないような、えっと…」
「クリスさん」
うろたえまくるクリスの腕を引っ張って、無理やり座らせてから、目でぐっと威圧する。クリスとの間にはちょっとした身長差があるが、こうして座ってしまえばそんなに違わない。
「俺に、隠し事するの?」
強い口調で問い詰めてから、一拍おいてそっと目線をそらす。少し伏目がちにするのがポイントだ。
「……そりゃ、俺はクリスさんよりまだまだ弱いし、子供だし、頼りにならないと思うけど…でも、俺は、クリスさんの恋人だから。俺だってクリスさんの助けになりたいんだ」
「ヒューゴ……」
わざとらしい仕草だったが、クリスには通用したらしい。紫の双眸に全幅の信頼を浮かべてみつめられ、ヒューゴはこっそりと心の中でクリスに謝罪する。まったく……クリスは呆れるほどお人よしで、騙されやすい。この手で何度もヒューゴにいいように振り回されているのに、まるで自覚がない。
クリスの信頼につけこんだ、卑怯な手段ではある。けれども、ヒューゴがクリスを傷つけることは、今まで一度もない。こうと決めたら頑固な上に、他人を頼ることが苦手なクリスから事情を聞くには、こうした方法が一番だというだけだし、その後はいつもクリスのために行動している。
…今回は、自分の身を守るためでもあるが。
「じ、実は…昨日、リリィと話をしていて…」
「…………………」
何かと面倒ごとを引き起こしてくれるクリスの友人の名前に、ヒューゴは軽いめまいをおぼえた。もっとも、クリスの奇行の元凶といえば彼女か、妖艶な魔法使いぐらいしか思い当たらないので、ある種予想できた事態ではある。
二の句が告げられないでいるヒューゴの前で、クリスはうっすらと桜色に染めた頬に、ぺたりと手をあてた。
「最近、メイミのレストランに新作のケーキができただろう? それでリリィとお昼に、ケーキが美味しいって話をしてたんだけど………その、リリィに言わせれば、わ、わたし、体重が………」
「…あー…なるほどね」
途切れた言葉の先が予測できて、ヒューゴは投げやりな唸り声をあげた。
あのお嬢様は、婉曲な物言いというものには縁がない言い方をする。どうせ、いつもの調子で「あんた、最近太ったんじゃないの?」とでも言ったのだろう。おまけに自説を曲げるとか誤りを認めるという行為にも縁がないから、たとえ口論になったとしても、クリスに対してここぞとばかりに堂々と言いたい放題やらかしたに違いない。
ありありと想像できる光景に、ヒューゴははぁ、とため息をついた。
「それで、運動しようと?」
「そうなんだ! よくわかったな、ヒューゴ。ということで続けるぞ」
「ちょちょちょ、ちょっと待ったクリスさん!」
うっかり終ってしまった会話に、ヒューゴは慌てた声を上げた。冗談じゃない、このままずるずるとクリスのペースになれば、干からびるまでつき合わされかねない。クリスのためならなんでもしてやりたいとは思うが、物事には限度というものがある。
「こ、こういうものは、毎日少しずつやるほうがいいんだ。だから、今日は、…その、もうやめたほうがいいよ」
「…そうか。わかった」
苦し紛れの言い訳だったが、クリスはこれまた素直に納得した。勢い良くすっと立ち上がり、ひょいとヒューゴの手を引いて立ち上がらせる。何とか苦境を免れて、ほっとしたのもつかの間、にこりと笑いかけられた。
「明日、またやろうな!」
「う、うん…………………え?」
明日。また。…それは明日『も』、今日と同じだけ訓練に付き合わなければならない、ということで。しかも、それが明日で終わる保証はどこにもないのだ。
暗澹たる先行きに、ヒューゴは立ち上がる力すらなくして、ばたりと地面に倒れこんだのだった。
余談だが、10日後にトウタ医師がクリスに対し適正体重のお墨付きを出すまで、ヒューゴはクリスの訓練に付き合い続け…その後、まるまる10日、筋肉痛に悩まされたという。
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