コドモとオトナ

 人間誰しも、「逆らえない人」というものが存在すると、ヒューゴは思っている。たとえばそれはヒューゴにとってのルシアのように「怖いから」逆らえないとか、ジョー軍曹のように「なんとなく頭が上がらない」とか、まぁいろいろ種類はあるけれど、ヒューゴには確実に何人か存在する。
 その中でも別格に位置するのが、目の前に座っている女性だ。
 さらさらと流れる銀の髪。女神像のように端正な顔立ち。戦場での鬼神のような戦いぶりとは裏腹に、女性らしい華奢な体つき。紫水晶の輝きを持つ瞳は何時だってまっすぐ前を向いていて、厳しい横顔は見る者を近づけさせない、神聖な空気を孕んでいる。ゼクセンを守護する女神、戦乙女と讃えられるのもよく分かる。
 …のだが。
「ねぇ、クリスさん…」
「やだ~、ヒューゴもいっしょにのもうよ~」
 …ぺたんと床に座り込んで、蒸留酒の瓶を抱え込んでいる今の姿には、そんな威厳なんぞ微塵も感じられないが。
「いや、だからね、俺は飲まないから…」
「どぉしてどぉして~? ぐんそうもルシアものんでくれたのに~っ」
「…や、俺はまだ未成年だし。………ていうか、なんで俺の部屋に……」
 酔いのため舌足らずな口調のクリスを見下ろして、ヒューゴはがっくりと肩を落とした。クリスをヒューゴの部屋に宅配したのは軍曹だが、肝心の軍曹はまたもや酒場へと戻ってしまっている。おそらく今頃は酒場の床に寝転がって幸せな夢を見ているに違いない。このビュッデヒュッケ城にクリスの部屋もあるので、どうせだったらそっちに連れていってくれればよかったのに、とは思うが、こんな状態のクリスをひとりにしておくのも心配だったのだろう。
 それに、こんなに無防備なクリスを、他の人に見せるのはヒューゴとしても心穏かではいられない。多少の不利益は甘受しなければならないということだ。
「ねぇ、ヒューゴ~」
「わかったわかった。とりあえず今は、水を飲んで」
「みずよりおさけがいいよぅ~」
「後でね」
 自分よりも大人とは到底思えない口調で駄々をこねるクリスを、なんとか宥めすかして水を飲ませる。本人は気づかないだけで実は相当喉が渇いていたのだろう、ごくごくと喉を鳴らして飲み干したクリスは、空になったグラスを勢い良く突き出した。
「のんだ~、だからおさけっ」
「はいはい」
 適当に返事しながら、グラスにまたもや水を注ぐ。これまた一息に飲み干したクリスは、そこでようやく酒でないことに気づいたらしく、きゅっとヒューゴを睨みつけた。頬を桃色に染めて、眼を潤ませているため、怒っているにしては妙にかわいらしい。
「ヒューゴのうそつき~っ」
「うん、ごめんね」
 泣き出しそうなクリスにぐらっと心がよろめくが、ここで妥協をして後々困るのはヒューゴと…それに当のクリスである。えぐえぐ、と泣き真似をするクリスの頭を撫でると、ヒューゴはクリスの膝の下に手を差し入れた。よいしょ、と短い掛け声と同時に、クリスを抱きかかえる。
 15歳の発展途上の少年と、22歳の鍛えられた女性騎士では、明らかに重さが異なる。とはいえ、ヒューゴも最近はそれなりに訓練の成果が出てきたようで、クリスをほんのベッドまで運ぶくらいはできるようになった。重みに負けそうな足でしっかり床を踏みしめて、クリスをベッドの上に下ろす。毛布をきちんと首元までかけると、きゅるん、と擬音が聞こえてきそうな眼差しが向けられた。本人は無自覚なのだろうが…ヒューゴにとっては、いささか心臓に悪い。
「ね、ヒューゴ」
「…ダメ。とにかくダメ」
「なによぅ~、まだなにもいってないのに~っ」
「言わなくても解る………って、クリスさん!?」
 慌てた声を上げたときには、遅かった。毛布からにょっきり伸びていたクリスの手が、ヒューゴの腰の辺りをつかんだかと思うと、ヒューゴを強引にベッドの上に引き倒したのである。流石は騎士の腕力、恐るべし。
「じゃおやすみ~」
「クリスさん!? ちょっと、離してってばっ…!」
 抱き枕のようにヒューゴの身体を抱いた恰好のまま、クリスの瞼がすとんと落ちた。子供のような寝つきのよさである。ヒューゴが懸命にクリスを起こそうと揺さぶるが、起きる気配はまったくない。
「………はぁ…」
 諦めたヒューゴは、長い溜息をつくと、不自由ながらも寝やすい体勢になるよう、ごそごそと動いた。人間諦めが肝心というのもあるが…クリスの実力行使がなかったとしても、クリスの「一緒に寝て」攻撃をかわしきれたかというと疑問が残るというのも理由のひとつだ。
 なんだかんだいっても、肝心の部分ではなかなかクリスに抗えない。それはもう、刷り込まれた本能のようなものだ。
「おやすみ、クリスさん…」
 子供にかえった大人と、苦労性の子供の夜は、こうして静かに更けていった。

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