Fairy Tale

 荒野の夜は寒い。遮るものの無い場所を乾いた風は吹きすさび、容赦なく体温を奪ってゆく。滅び行く世界は何時でも何処でも、生きる者たちに過酷な試練を課している。それでもヒトも動物も植物も、生きてゆくことを諦めたりはしない。出来る限り真っ直ぐに背を伸ばし、己の生を全うしようと限りのある恵みを奪い合いながら、懸命に時を過ごしてゆく。
 生きていくことはただそれだけで、辛く苦しいことなのに。なぜ、何のために、生きてゆくのか。
 この滅びつつある世界に、何のために生まれ、何のために死んでゆくのか。
「…アンタ、何やってんの?」
 ぼんやりと風に揺らぐ焚き火を見詰めていたセシリアに、不意に高い声が投げつけられた。勝気で高飛車で、セシリアとは違った意味でまた「お嬢様」な彼女は、言い方こそきついけれどもセシリアは悪い人間ではないと思っていた。決して嫌いではない。むしろ、好ましくすら思っている。
 多分、本質的に不器用な人間なのだろう。素直に自分の心をさらけ出し、甘えることができないだけで。
 かつての自分を見ているようで、少し微笑ましい気持ちになる。
「…少しだけ、考え事をしていました」
「あっそ」
 柔らかい声音で答えたセシリアに、短く呟いたジェーンはセシリアの隣にすとんと腰を下ろした。もちろん、さっきまで包まっていた毛布を背中から羽織ることは忘れない。きっちり防寒対策を施していなければ、明日の朝には病人がひとり出来上がるだけなのだ。
 しん、と静まり返った荒野に、焚き火が爆ぜる音と、ザックの寝言が重なる。どうやら夢の中でもハンペンと喧嘩をしているようで、ぶつぶつとぼやいている。
 日常のその風景が容易に思い起こせて、セシリアの表情が自然と綻んだ。目ざとく見つけたジェーンが、強い光を放つ瞳に疑問を浮かべる。もう一度柔らかく微笑んで、セシリアは手にした枯れ木をそっと焚き火に入れた。一際大きな火の粉を撒き散らして、枯れ木は橙色の火に飲み込まれる。
「不思議でしょう? わたしは旅に出るまでは、ザックのこともロディのことも知りませんでした」
 アーデルハイドとクラン修道院。たったそのふたつしか知らなかった。いや、アーデルハイドでさえほとんど知らなかったのだ。城から出ることは無く、ただ賑やかな街並みを眺めるしかできなかったのだから。
 現在は公女として。ゆくゆくはアーデルハイドを繁栄に導く女王として。
 いろんなものを学んではいたけれども、結局何一つとして知らないのだと、旅に出て初めて知った。
「けれども、今は、こうやって皆さんと一緒にいるのが当たり前になって。人の、繋がりというのは不思議なものですね」
 運命の糸が縒り合わさるようにして集い、行動を共にしてから、様々な出来事があった。嬉しいことも辛いこともあって、そうして現在がある。過去の出来事のひとつとして欠けていたならば、今、こうして居ることはなかったのかもしれない。
「…ザックも。ロディも。ハンペンも。エマ博士も、バーソロミュー船長も、みんな、大好きです。皆さんとの出会いがあったから、わたしは少しずつわたしを嫌っていないわたしへと変わることができました。…もちろん、ジェーンさんも大好きですよ」
「………恥ずかしいコト平気で言わないでよね」
 率直なセシリアの言葉に、ジェーンがそっぽをむいて呟いた。セシリアから僅かに見える頬が赤く染まっているのは、焚き火のせいばかりではないだろう。特に追求することも無く、セシリアはもう一度焚き火に枯れ木を投げ込んだ。
 本当に、変わったものだと思う。おそらく旅に出た当初の自分だったら、嫌われているに違いないとも思い込み、何とか心を開いてもらおうと懸命に話しかけていただろう。自分に自信がなくて、嫌われても仕方が無いのだと諦めが気持ちの奥底に沈殿していたあの頃だったら。
 にこりと穏かに微笑んで、セシリアはそれきり何も言わなかった。ぱちりぱちりと焚き火がはじける音だけが、深遠の闇に響き渡る。暫くして、ふいにジェーンが小さく呟いた。
「……アンタ、お姉ちゃんに似てる」
「…えぇっと…ジェシカさん、でしたか?」
「うん」
 ジェーンの姉。ジェシカ・マックスウェル。
 直接顔を合わせたことはなく、ニコラかジェーンから話を聞いたことがあるだけだ。確かマックスウェル家の長女で、ジェーン曰くコートセイムで一番の美人だとか。
 詳しく話を聞いたわけではない。それでも会話の節々から、ジェーンがどれだけ姉を尊敬し、慕っているか伝わってきた。
 その彼女と。
 …自分が?
「お姉ちゃんも…パパもだけど。お金にならないことを、すごく大事にするのよ。信頼とか。夢とか。愛情とか」
「でも、それは確かに大事なことですよ。そんな人の心が、守護獣に力を与え、ファルガイアを支える力になるのですから」
「そうかもしんないけどさ。…明日への希望よりも、今日のパンの方が遥かに『今日』を支えるわよ」
「…そうですね」
 人は弱い生物だから。気持ちだけじゃ、生きてゆけない。遥かな空に手を伸ばすよりも先に、大地をしっかりと踏みしめなければならないのだ。城に居た頃は理解できなかったが、渡り鳥として仕事をこなしながら世界を回るうちに、肌で感じ取ることができるようになった。
 けれども、とやっぱりセシリアは思う。
「ジェーンさんは、コートセイムの子供達は嫌いですか?」
「…そりゃ、嫌いじゃないけどさ」
「もし、あの子達を売って欲しい、といわれたら?」
「……引き取るんじゃなくって?」
「ええ。お金を出すから、後のことには口出ししないで欲しいと言われたら」
 たとえ引き取った子供達に、どれほど残虐な振る舞いをしようと。金を払った以上関係はないと突っぱねたら。
 ぐ、と詰まったジェーンに、セシリアは晴れやかに笑った。
「やっぱり、お金より大事なものだって、あるんですよ。誰にだって…多分、大事すぎて、改めて考えることがないだけだと思いますよ」
 夢だけでは生きていけない。けれども、今日の糧さえあれば満ち足りるわけでもない。
 『アーデルハイドの公女』としてしか見られない自分を嘆き、憎んでいたかつての自分が。
 アーデルハイドに住む人々を好きで、だから護りたいのだという純粋な願いをいつしか忘れ去ってしまい、虚ろな日々を送っていたように。
 穏かな声音に、ジェーンはもう一度そっぽを向いた。今度は耳の先までが赤く染まっているのが何だか可愛らしくて、うっかりくすくすと笑みが零れ落ちてしまう。
「…やっぱり、アンタって腹立つわねッ」
「すみません」
「そういう…お姉ちゃんにそっくりなトコがなおさらッ!」
「ありがとうございます」
「…うーっ」
 ジェーンが尊敬するジェシカに似ているという言葉は、ひどく嬉しく、心に染み込んだ。言い募っても無駄だと悟ったのか、唇を気難しげに退き結んだジェーンが唸り声をあげる。『カラミティ・ジェーン』…『荒野の災厄娘』の異名には不釣合いな、年相応らしい表情は気を許してくれている証にも見えて、セシリアの笑みはますます深くなる。
 ややあって。
「………アンタ、もう寝たらどう? 焚き火の番、アタシがやるわ。そろそろ時間だしね」
「そうですか?」
 交代の時間までにはまだ少し、ある。自分に与えられた仕事なのだから、その時間がくるまでは自分がきっちりとやらなければならない。もとより生真面目なセシリアにとって、それは当然のことであり、今まで何度かあった『代わろうか』という申し出を頑ななまでに辞退してきた。
 だが。
「…じゃあ、お願いしますね」
 たまには、人の好意に甘えることも、いいかもしれない。滅多に素直に言葉や態度に出してくれない彼女だから、尚更のこと。
「……あのさ」
 小さく感謝の言葉を告げて、するりと立ち上がったセシリアの背中に、ぽつんとささやかな声が向けられる。ゆっくり振り返ると、そこにはちらちらと揺れる焚き火に真っ直ぐな眼差しを向けるジェーンの、引き締まった横顔だけが見えた。
「……アタシ、もうちょっとだけ御伽噺を信じてみることにする」
 きらきらと輝く、甘い金平糖のような。
 さらさらと溶け去ってしまう、淡い粉雪のような。
 ただ『生きる』ためには必要の無いモノでも。より『幸せに』生きていくには必要なモノ。
 荒野に吹く風にかき消されそうなほど小さな声は、けれども思い付きではない、しっかりとした響きを伴っていた。普段の彼女からは考えられない言葉に、一瞬目を見張ったセシリアだったが、すぐにふわりと零れるような笑みを浮かべた。
「…………はい。おやすみなさい」
「ん、おやすみ~」
 頬を掠める風はひどく冷たいけれども、胸のどこかがほんのりと温かい。すぐにぐっすりと眠れそうな気がして、セシリアはそっと瞼を閉じた。

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