ゆっくりと倒れこんだ自室の寝台は、一年ぶりだというのに記憶の中のものと変わらないまま、柔らかくシェンルフィーダの身体を受け止めた。はぁ、と吐き出した息が、するりと部屋の中へ溶けてゆく。
太陽宮で働く侍女たちは、何時シェンルフィーダたちが戻ってきてもいいようにしていたのだろう。マルスカール・ゴドウィンとギゼル・ゴドウィンの起こした動乱によってシェンルフィーダが太陽宮を出てから、ほぼ1年という年月が経過しているにも関わらず、出て行ったときと部屋の様子はまったく変わって変わっていなかった。
惨劇の夜などまるで無かったかのように。
夢だったのだと、そう思ってしまいそうなほど。
(……けど、夢なんかじゃない)
喪われた多くの人々。あの夜までは、当たり前のように傍に居てくれた人たち。父や母、それから……。
「……」
なぜ、なんてもう何十回も自問して、推測することはできても答えはもう永遠に手に入らない。結果として紋章に命を削られた形となったけれども、そこに追い込んだのは直接的にも間接的にも、間違いなく自分なのだ。
シェンルフィーダのために――そして新しい治世を始めるリムスレーアのために。後に禍根を残さないよう、その身を人柱として汚濁を拭い去ってくれた……そう、理解はしている。
けれども、なぜ、と。繰り返し繰り返し、思わずには居られないのだ。どれほどの禍根となろうとも、叔母が…家族が生きていてくれたほうが、どれほど嬉しいか、知らないはずはないのに。
(……第一、今更だ)
邪魔ならば粛清すれば良いだけの話で、そうしたところで己の重ねられた罪業にひとつ、加わるだけの話なのだ。自分はもうサイアリーズが可愛がってくれていた無邪気な少年ではなくなってしまったのだから。
そういう意味では、結局のところ、マルスカールやギゼル、サイアリーズなど民に憎まれる立場になった者たちと何ら変わらぬ罪を負っているのだ。
「……そうだ」
ふるりと頭を振って、陰鬱な思考を追い払う。
女王となった妹と王都は奪還したものの、太陽の紋章はまだ取り戻していない。明日になればこれからのことについてルクレティアから話があるだろうから、今夜はもうさっさと寝て明日以降のことに備えるのが正しい判断なのだろうが…どうしても、今夜のうちにやりたいことがあった。
ふと身体を起こすと、そろりと寝台を降りた。足音を忍ばせて扉へ向かい、隣の部屋のリオンを起こさないよう慎重に押し開く。周囲に人影がないか確認したあと、シェンルフィーダは猫のような身のこなしでするりと廊下に出た。
ふっとため息をついて、シェンルフィーダは上げかけた手を止めた。もしかして、という疑念がふと沸き起こってしまったのだ。
(もう、寝てしまっているかな……?)
起こしてしまったら申し訳ない、と思う。今日という一日はあまりにもいろいろと起こりすぎた。疲れ果てていても仕方がないし、だとすれば自分の望みなど邪魔でしかない。
けれども。
『きっと喜びますよぉ~』
脳裏で再生されたのは、先ほど見つかり、つかまってしまったミアキスの声。のんびりした言動に騙されがちだが彼女は立派な女王騎士であり、気配には敏い。
それはもちろんリオンにも言えて、結局部屋を出て数歩もいかないうちに、リオンに気づかれてしまった。正直に目的地を告げて見逃してもらったけれども、そのときも同じように『姫様、きっと喜びますよ』と言われたのだ。
(一度だけ)
一度だけ、呼んでみる。それで応えがないようであれば、諦める。
そう決めたシェンルフィーダは、きゅ、と軽くこぶしを握った。深呼吸をひとつして気合を入れると、慎重に扉を叩く。
こん、こん。
「……誰じゃ?」
深夜の訪問など、良くない思い出しか残っていないのだろう。いささか固い声音の誰何に、シェンルフィーダは小さく苦笑しながら答えた。
「僕だけど……いいかい?」
「兄上!?」
よほど予想外だったのか、すっとんきょうな声が上がった。ばたばたと足音が慌しく響いたかと思うと、勢い良く扉が開けられる。
「ごめんね、夜遅くに。もう寝てた?」
「いや、これから寝ようと思うておったが……何ぞあったのか?」
緊張した面持ちでまっすぐ眼差しを向けるリムスレーアに、シェンルフィーダの表情が微かに歪んだ。ほんの少し手を伸ばして、さらさらと流れ落ちているリムスレーアの亜麻色の髪をなでる。
ずっと思い描いていたよりも、少しだけ近い距離。僅か十歳の子供にとって一年という月日は長く、成長に十分な時間だ。本当は、ずっと傍で見守っているはずだったのに。まだまだ何も知らない子供でいて良かったはずなのに。
シェンルフィーダを見上げるリムスレーアの眼差しには、つよい光が宿っている。それはもう、無邪気に兄を慕っていた子供のものではない。女王として国を支える責務と重圧を知り、それでもなお茨の王座に座り続けることを決めた眼差しだ。
「……兄上?」
無言でひたすらリムスレーアの髪を撫で続けるシェンルフィーダに、怪訝そうな声が上がった。ふと我に返ったシェンルフィーダは手を下ろし、できるだけ優しい眼差しを作る。
「リムと居られるようになったら、また一緒に寝ようと……そう、ずっと思ってたんだ。迷惑だったかい?」
「そんなことはないぞ! 大歓迎なのじゃ」
ふわりと花開く笑みを浮かべて、リムスレーアはシェンルフィーダの手を引っ張った。
腕の中に抱え込んだ温もりは、最後にこうして抱き合って眠ったときよりもいささか細く感じられて、シェンルフィーダは小さく眉根を寄せた。おそらく別れてから今まで気の休まる瞬間も無く、過ごしてきたのだろう。ましてや最近は、ずっと一緒に居たミアキスとも離れ、たったひとり過ごしていたのだ。食べ物が喉を通らなかったのだとしても、不思議は無い。それに比べ、自分にはリオンが居た。ゲオルグも、姉のように慕った人も、運命に導かれ集った宿星たちも居た。
子供らしく、伸び伸びと過ごして良かったはずの時間を、リムスレーアは家族の誰とも引き離され、窶れながら過ごしたのか。そう思うと胸が痛くなる。終わりよければすべて良しとは言えないのだ。喪われたものは戻らず、時間は巻き戻せないのだから。
「……あにうえ……?」
するりと胸元に頬を寄せているリムスレーアからはシェンルフィーダの表情はわからないはずなのだが、何がしかの気配を感じたのかもしれない。窓から細く差し込む月光のおかげで真の闇には閉ざされていない室内に、銀の鈴を振るような澄んだ声音が緩く響いた。
「……うん」
気遣うような響きに曖昧に答えて、シェンルフィーダは妹の髪をなでた。亜麻色の艶やかな髪は、指先にひっかかることなく、するりと流れ落ちる。父譲りの、けれど微妙に違う色合いは、いかにもリムスレーアらしいように思えた。
優しく、柔らかい。
「リムは……大きくなっちゃったなぁ……」
「そうか? ミアキスにはよく小さいと揶揄されておったゆえ、あまり身長が伸びておらなんだと思っておったが……」
「ずっと傍に居ると、案外気づかないものだからね」
「……そうかもしれぬ。けれど……これからは、兄上はずっと傍に居てくれるので、あろ……?」
眠いのだろう、リムスレーアの答える声音がどこか茫洋としたものになっている。どれほどしっかりしていてもまだ十と少しを越えただけの幼子で、シェンルフィーダに比べれば夜更かしに弱い。ましてや昼間の出来事は、リムスレーアの精神と身体を疲れ果てさせるのに十分だったに違いない。
くすり、と小さく笑って、目元を和らげる。愛らしい妹のお願いを断ることなど今まで考えもよらないことだったし、父も母も叔母も亡くなった今、リムスレーアを守るのは兄である自分の義務であり権利であり…譲れない願いでもある。
「もちろんだよ、リム。……だから、もう寝なさい。じゃないと大きくなれないよ?」
「……わかった……。おやすみなさい、なのじゃ……あに、うえ……」
シェンルフィーダの推測通り確かに限界だったようで、安心するように呟かれた言葉の端から、睡魔に飲み込まれてゆく。すうっと吸い込まれるように眠りに落ちたリムスレーアの素直さに、抑えきれない愛しさと柔らかい笑みとが自然と浮かんでくる。
「リム……」
腕の中で静かな寝息を立てているリムスレーアを起こさないよう、慎重に……けれどそっと力をこめて、抱きしめる。温もりを分け合うことで、今まできっと満足に眠れなかったであろう妹が、少しでも安心して眠れるように。それは、本当に心の底からリムスレーアのための行動ではあるけれども、それだけではない。
血に塗れた両手で無垢な妹を守ることで、自分の罪にも幾許かの意味があるのだと、思いたいだけだ。
一軍を統べるものとして出陣を命じたその瞬間から、この両手はとっくに血に塗れている。敵にしろ味方にしろ、誰一人として命を落とさなかった戦などありはしないし……そもそも『敵』と断じた者たちも、同じファレナの民だったのだ。国を守り、国のために命を捧げるべき王族でありながら、数多の国民の命を奪ったその罪の重さを知りながら、リムスレーアの清らかさに救われている。
守ってくれてありがとう、と妹は無垢な笑顔で告げる。けれども本当に救われているのは自分のほうなのだ。
「ありがとう、リム……」
そっとリムスレーアに囁いて、シェンルフィーダは静かに双眸を伏せた。これからも辛い事が多いであろう妹が、少なくとも今だけは幸せな夢を見られるよう祈りながら。
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